納屋町
なやまち
[現在地名]中村区名駅五丁目・名駅南一丁目
堀川西岸に沿って、小船町(現西区)から南下、納屋町に至る南北道筋・納屋町筋、あるいは堀川西岸通(府城志)の南端に位置する(尾張志)。北は丸屋河戸で船入町に、南は納屋橋やや南の戸田道で下納屋町、さらに水主町へと続く二丁をさす。ほかに若干の支配地を含む(金鱗九十九之塵)。建始年月未詳。清須越しではない(尾張城南陌名由緒)。熱田の魚商藤右衛門・又右衛門・平四郎・嘉右衛門の四人が木挽町(現中区)の北、土居辺りへ転住、魚問屋を開いた。慶長中(一五九六―一六一五)築城にあたり、作事の用地となったため、納屋町へ移った(金鱗九十九之塵)。
納屋町
なやまち
[現在地名]姶良町鍋倉
現在の別府川河口より四キロ上流の左岸、鍋倉村の地頭仮屋(現帖佐小学校)の東隣にあった帖佐郷の野町。田舎で大した商売もないので生活が苦しく、総人数のうち一三家内は半分だけの浦役を勤める半浦成を願出て、元文二年(一七三七)に認められた。なお当時の人数は五〇人であった(以上「列朝制度」)。天明六年(一七八六)には高三九石余、竈数六九、人数は男一〇〇・女七九(寛政六年「帖佐由来記」県立図書館蔵)。文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)によると、浦男女一五人、浦水手役四〇人立。当町には河湊があり、納屋町御蔵とその対岸の東餅田村に小烏御蔵が置かれ、藺牟田・黒木(現
答院町)、宮之城・山崎・佐志(現宮之城町)、蒲生・山田各郷の米穀を鹿児島に積出した(「三国名勝図会」など)。
納屋町
なやまち
[現在地名]鹿児島市泉町など
六日町と中町の筋から東方に位置し、南は今町。下町一二町の一。天保城下絵図に「下納屋」「納ヤ町」とみえる。納屋は魚屋のことという(倭文麻環)。元和元年(一六一五)の比志島国貞外二名連署掟書(旧記雑録)に「下納屋より年中商買方ニ付役義被定置候」「魚塩之売買納屋主執被仰付候」「魚塩船自他之諸浦ニよらす可漕来時者、勿論納屋衆可買執」とあり、納屋衆は魚・塩の買入れや販売についての特権が保障されていた(列朝制度)。さらに明和二年(一七六五)には「諸所ニて取得候諸魚、都て納屋へ売渡、脇売之儀一向不致様」とあるように(同書)、特権が強化されている。
納屋町
なやちよう
南北に通る土手町通を挟む両側町。江戸時代は、南北に走る御土居の西側に沿う。
平安京の条坊では左京七条四坊三保一四町の地。
町の形成は溜池町に同じ。
納屋町
なやちよう
東西に寺之内通が通る。元亀二年(一五七一)の御借米之記(立入宗継文書)に「なや町」とあり、上京立売組に属した。町名は、室町幕府の倉庫がこの地の南側にあったからといわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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