中世から近世に,海浜に商業用倉庫を設け,これを貸しつけて利潤を得ていた問屋(といや)で,納屋貸衆とも呼ばれた。その中のおもなもの10人をとくに納屋貸十人衆といい,中世,堺で指導的地位をもっていた。この納屋衆は後には会合(えごう)衆とも呼ばれ,堺の自治的共同体組織をつづけて指導していた。しかし,堺の豪商はほとんど政商であったため,政権の変動によって会合衆にも変化があった。堺海会(かいえ)寺の僧が記した1484-86年(文明16-18)の《蔗軒(しやけん)日録》には会合十人衆として,湯川宣阿,同新兵衛,富那宇屋(ふなうや)宗元,三宅主計(かずえ),和泉屋道栄,湯川新九郎,同助太郎などの名がみられる。1568年(永禄11)会合衆は能登屋,臙脂(べに)屋を中心として織田信長との一戦を構えたことは有名である。74年(天正2)3月信長は堺の会合衆と思われる10名を相国寺の茶会に招いたが,そのメンバーは紅屋宗陽,塩屋宗悦,今井宗久,茜屋(あかねや)宗左,山上(やまのうえ)宗二,松江隆仙,高三(たかさぶ)隆世,千宗易(利休),油屋常琢(じようたく),津田宗及であった。
→堺 →堺商人
執筆者:尼見 清市
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中世末から近世初頭にかけて、海浜に納屋とよばれる海産物などを保管する倉庫を設け、これを貸し付けて利潤を得ていた堺(さかい)の富裕な商人。納屋貸衆ともよばれる。『糸乱記(しらんき)』によれば、それらのなかでも「頭(かし)ら分」にあたる人々を十人衆と号して、公事(くじ)訴訟などの町政を取り仕切ったとされ、また、その本名とは別にすべて納屋と名のったという。この納屋貸十人衆が、都市の自治運営にあたって指導的役割を果たしたとされる会合(えごう)衆と考えられている。茶人として著名な千利休(せんのりきゅう)は幼名を納屋与四郎とよばれ、また、武野紹鴎(たけのじょうおう)の女婿(じょせい)で、織田信長や豊臣(とよとみ)秀吉の茶頭(さどう)を勤めた堺の豪商今井宗久(そうきゅう)は納屋宗久ともよばれ、いずれも納屋衆の出である。
[小林保夫]
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中世後期~近世初期の港湾都市で活躍した貸倉庫業者。運輸・貿易・金融などもかねて総合的に経営する豪商へ発展した者もあり,都市の有力者として自治組織を指導した。和泉国堺の納屋貸十人衆が有名で,巨富を築いた総合倉庫業者を中心に豪商が連合し,定期的に会合をもち,堺の都市運営を支配したが,織田信長の弾圧をうけ自治体制は崩壊した。
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…堺の商人を中心とする町民たちは,領主が弱体化したことを利用し,その経済的な富を基盤として,納屋貸十人衆を代表とする地下請(じげうけ)を行い,町内の公事(くじ)訴訟の決裁も十人衆が行うというような自治的な団結組織をつくり,都市自立の態勢を強化した。この自治的共同体組織を指導したのは納屋衆あるいは会合衆(えごうしゆう)と呼ばれる門閥的な豪商たちであった。町民たちは市街を兵火から守るため,南,北,東に濠をめぐらして町を囲み,傭兵隊を置き一種の要塞都市をつくりあげた。…
※「納屋衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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