鍋倉村(読み)なべくらむら

日本歴史地名大系 「鍋倉村」の解説

鍋倉村
なべくらむら

[現在地名]姶良町鍋倉

別府べつぷ川の北岸に位置し,対岸は東餅田ひがしもちだ村、東は加治木かじき木田きだ(現加治木町)帖佐ちようさ郷の中心で、地頭仮屋が置かれ、麓と野町の納屋なや町が形成されていた。加治木郷と隣接する北から東は山地、南は別府川の沖積平野が開ける。中世は加治木郷のうちにあった。大隅国建久図田帳によれば、鍋倉村三町は正八幡宮(現鹿児島神宮)領加治木郷一二一町七段半のうちに含まれ、僧忠覚が領有していた。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)にも加治木郷のうちとして鍋倉三町がみえ,三丈の石築地役を賦課されている。この時の領有者は大輔法橋勝印で、彼は加治木郷若宮田三町の領主でもあった。永享三年(一四三一)三月日の大隅国留守所下文写(同家譜)によると、鍋倉五段に国司初任の引出物・勘料として一〇疋が割当てられている。

元和六年(一六二〇)三月一二日付の本田助丞宛の帖佐支配所知行目録(旧記雑録)によると、「帖佐鍋倉村」の四三石余が浮免とされている。


鍋倉村
なべくらむら

[現在地名]花巻市鍋倉

草井くさい(四一三・二メートル)の東麓に位置し、鍋割なべわり川が北側を流れる。南は膝立ひざたて村・北万丁目きたまんちようめ村。慶長八年(一六〇三)頃、当地を含む和賀稗貫ひえぬき両郡の二〇所八千石が北松斎信愛に宛行われており(年未詳「南部利直知行宛行状」宝翰類聚)、同一五年の同人宛南部利直黒印状(盛岡北文書)に鍋倉村高二二九石余がみえる。正保国絵図では高一三四石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高二九三石余とあり、七ヵ年平均の免は三ツ三分九厘。


鍋倉村
なべくらむら

[現在地名]西伯町鍋倉

西にし村の西、絹屋きぬや川左岸、三方を山に囲まれ東に向く狭い谷間、大坪おおつぼ池の奥に位置する。西方出雲国境の大木おおき峠の中腹に祀られる五輪塔は江戸時代の初め、当地山中に賊となって籠り、のち斬殺された備後福山ふくやま浪人たちの将を祀ったという福山明神の伝説を伝えるが(伯耆志)、永禄七年(一五六四)に毛利氏の将三村家親勢と戦って敗死した尼子方の福山肥後守とかかわるものであろう。拝領高は五五石余、本免は四ツ六分。米子組士木村氏の給地があった(給人所付帳)


鍋倉村
なべくらむら

[現在地名]上郡町大富おおとみ

大杉野おおすぎの村の北に位置し、大富川渓谷を登り口とする標高三七〇メートル前後の鍋倉高原に立地する山上集落。江戸時代の領主の変遷は延享四年(一七四七)までは上郡村に、同年以降は井上いのかみ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田高四石余・畠高一六石余。


鍋倉村
なべくらむら

[現在地名]杵築市守江もりえ

守江村の北東、周囲を山に囲まれた高原にある。峡谷にわずかの水田をもつ。元禄郷帳に村名がみえ、高六四石とある。万治元年(一六五八)木付藩主松平英親が尾払おばらい池を造成し、高八五石余となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android