細屋村(読み)ほそやむら

日本歴史地名大系 「細屋村」の解説

細屋村
ほそやむら

[現在地名]両津市あさひ

北は青龍寺しようりゆうじ村、西は三瀬川さんせがわ(現金井町)、南東はしま内巻うちまき(現新穂村)と境する。集落は台地上にある。台地からは細長く低湿地に沢が延び、山林も多いが村域は狭い。細野ほそや細谷ほそやとも記した。天正一五年(一五八七)二月一三日の藍原白鴎寄進状(剛安寺文書)によると、吉井よしい(現金井町)地頭の白鴎は細野を剛安ごうあん(現金井町)に返還している。


細屋村
ほそやむら

[現在地名]珠洲市三崎町細屋みさきまちほそや三崎町内方みさきまちないほう三崎町二本松みさきまちにほんまつ

伏見ふしみ村の西、の川中流域に位置する。垣内の内方は下細屋ともよばれ、入江の奥にあたる地とみられ、もとはうちつ潟であったのが転じたものという。天正五年(一五七七)三月一五日、能登侵攻を進める上杉謙信は飯田与三右衛門にすず蔵見くらみ内の「細谷分」を与え(「上杉謙信朱印状」歴代古案)、七尾城落城後の同年一一月一六日に改めて細谷村八九貫四五七文の地を給している。これ以前は畠山旧臣神保越中守の知行地であった(「上杉謙信朱印状写」同書)正保郷帳に村名がみえ、高三七〇石余、田二三町九反余・畑七反余、新開高四九石余(免二ツ一歩)


細屋村
ほそやむら

[現在地名]日南町茶屋ちやや

船通せんつう(一一四二・五メートル)東麓を水源として北流し、直角に折れて村内を東流する小原こばら川最上流部に位置する。東は矢原やばら村、南は鉄穴内かんなうち村。拝領高は一五二石余、本免は四ツ八分。寛永一〇年(一六三三)の田畑地詰帳写(日南町役場蔵)によれば田方一五二石余の等級は上田一町一反余・中田二町九反余・下田六町七反余・下々田二町四反余、畑方一四石余の等級は上畑三反余・中畑五反余・下畑七反余・下々畑四反余、屋敷三反余、切畑六反余。嘉永元年(一八四八)の下札(同役場蔵)では朱高一六六石余(うち畑高九石余)と開高六八石余に対し、物成八九石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二三四石余、竈数三八。


細屋村
ほそやむら

[現在地名]喜多方市上三宮町かみさんみやまち三谷みたに

下三宮しもさんのみや村の西に位置し、細谷とも記した。西は山を隔てて藤沢ふじさわ(現山都町)、南は岩沢いわさわ村、北は譲屋ゆずりや村。慶徳組に属し、本村北西に小名上細屋がある。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」に村名が載り、「新編会津風土記」によると家数は本村二一・上細屋七。文化一五年(一八一八)の村日記では細谷とみえ、高三五九石余。


細屋村
ほそやむら

[現在地名]輪島市三井町細屋みいまちほそや

新保しんぼ村の西、河原田かわらだ川上流西岸の山間に立地し、集落は谷沿いにある。正保郷帳に村名がみえ、高七五石余、田方四町・畑方一町余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免五ツ一歩(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android