日本大百科全書(ニッポニカ) 「緑川洋一」の意味・わかりやすい解説
緑川洋一
みどりかわよういち
(1915―2001)
写真家。岡山県の呉服商の家に生まれる。旧名は横山知(さとし)。1932年(昭和7)、日本大学専門部歯科医学校に入学。このころ、趣味であった自作の模型飛行機を写真に撮るために、友人からカメラを借りたのが最初の写真との出会いとなる。その時の写真がよく写っていたことが、写真に熱中するきっかけとなった。そして懇意にしていた模型店の主人と製作した模型エンジンが高額で海軍省に売れ、ドイツ製のカメラを購入する。
1936年に日本大学を卒業。東京での勤務医を経て、翌年には郷里に帰って岡山駅の近くに横山歯科医院を開業する。1938年から雑誌『写真サロン』の月例コンテストなどに応募するようになり、ペンネームとして「緑川洋一」を使いはじめる。岡山に住んでいた石津良介(1907―86)が中心となって活動していた中国写真家集団に入会したのが機縁となって、生涯の友人となる植田正治と知り合う。第二次世界大戦下にあって、軍関係者にはたらきかけて岡山連帯区司令部報道班を結成し、『写真文化』誌などにも投稿を続けるなど精力的に活動する。戦後の1947年には上京して、雑誌『カメラ』や『写真文化』の編集者となった石津の紹介で、東京の写真家集団「銀龍社」に植田とともに参加する。メンバーには林忠彦や秋山庄太郎らがいて、後に二科会写真部に発展していくことになる。
最初の写真集は『女』(1950)だったが、地方に住んでいると東京の秋山らには太刀(たち)打ちできないとの思いもあって早々に断念して、故郷でもあり、緑川の写真家人生を通じてのテーマとなる瀬戸内海に集中的にカメラを向けるようになる。その最初のエポックとなったのが、満月の夜の岩場に三脚を立てて1時間もシャッターを開いて露出をかけて撮影した「夜の鳴門急潮」(1953ころ)である。このころから長時間露出や多重露出、あるいはソラリゼーションなど、緑川の写真に特徴的なさまざまのテクニックを使った写真がつぎつぎと発表されていくことになる。そして1959年にはヨーロッパ各地を撮影旅行し、帰国してからはカラー写真に新たな表現の可能性を求めて、新境地を拓いてゆく。まだこの時代はカラー写真の草創期でもあり、フィルターを駆使して撮られる、独特な色彩感覚の幻想的な瀬戸内海の風景写真によって緑川は「色の魔術師」と呼ばれるなど高い評価を得るようになる。
1962年には『瀬戸内海』を出版し、長年にわたる瀬戸内海への取り組みが評価されて日本写真批評家協会作家賞を受賞。さらに翌1963年には日本写真協会年度賞と岡山県文化賞を受賞する。そして1967年には「横山歯科医院」を「緑川歯科医院」に名称変更し、1978年の家裁決定によって、横山知から緑川洋一に戸籍登録名を変更する。『国立公園』(1968)、『日本の山河』(1975)などの日本各地の風景の撮影にも取り組むが、写真の中心は一貫して瀬戸内海であり、これまでに多くの写真集が刊行されている。1990年(平成2)には勲四等瑞宝章を受章。1992年には現在の岡山市東区に「緑川洋一写真美術館」が開設され、自ら館長に就いた。同館には緑川の写真が常設展示されている。
[大島 洋]
『『女』(1950・光芸社)』▽『『ヨーロッパの風景』(1960・芸美出版社)』▽『『瀬戸内海』(1962・美術出版社。改訂版1978・国際情報社)』▽『『国立公園』(1968・中国新聞社)』▽『『海』(1971・筑摩書房)』▽『『日本の山河』(1975・矢来書院)』▽『『瀬戸内旅情』(1979・集英社)』▽『『国立公園の四季』(1980・集英社)』▽『『昭和写真・全仕事6 緑川洋一』(1982・朝日新聞社)』▽『『山陽道』(1992・集英社)』▽『『日本の写真家22 緑川洋一』(1997・岩波書店)』▽『松本徳春著『写真家のコンタクト探検』(1996・平凡社)』