写真家。山口県徳山町(現周南(しゅうなん)市)に祖父の代からの写真館の長男として生まれる。1935年(昭和10)徳山商業学校卒業後、大阪の中山正一写真館で徒弟修業する。36年肺結核療養のため帰郷。39年オリエンタル写真学校入学のため上京。同年同校卒業後、報道写真専門の東京工芸社に入社する。42年華北弘報写真協会の創設にともない、北京(ペキン)と東京を半年ごとに往復して主に宣伝写真を撮影するようになる。北京で第二次世界大戦終戦を迎え、46年(昭和21)に帰国する。
帰国後すぐに、引揚者、浮浪児等、焼け跡・闇市の時代の雰囲気をいきいきととらえたスナップ写真やポートレートを雑誌を中心に発表しはじめ、一躍人気写真家となる。終戦直後の苛烈な状況の中、たくましく生き抜く庶民の姿を共感を持って撮影したこれらの写真群は、のちに写真集『カストリ時代』(1980)に集成され、林の代表作となった。
一方、林は当時文壇を賑(にぎ)わせていた、いわゆる無頼派の作家たちと交遊を深め、彼らのポートレートを次々に撮影していった。坂口安吾、太宰治、織田作之助等の時代の空気を色濃く感じさせるポートレートは、1948年1月号から『小説新潮』の巻頭グラビアページに掲載されはじめ、大きな反響を呼んだ。林はこの一連の文士シリーズで、モデルのいる環境を生かしつつ、さりげない演出を加えていく「演出的スナップ」とでもいうべき独自の撮影スタイルを作り上げていった。この方法論は、『婦人公論』(1956年1~12月号)に連載され、のちに写真集『小説のふるさと』(1957)として刊行された、小説家とその小説の舞台となった土地とのかかわりを追ったシリーズでもより緻密に展開されている。
その後も、『日本の作家』(1971)、『日本の画家108人』(1978)、『日本の家元』(1983)などに集成された重厚な人物写真、『現代日本写真全集 日本の心 第8巻 長崎 海と十字架』(1980)、『若き修羅たちの里 長州路』(1981)など風土と歴史との絡みあいをテーマとしたシリーズ等々、日本の写真界を常に第一線でリードしていく力作を発表し続けた。
一方では、秋山庄太郎、大竹省二らと1953年に二科会写真部を結成し、精力的に全国を回ってアマチュア写真家の指導にあたるなど、写真表現の大衆化に大きな役割を果たした。
1985年に肝臓癌の告知を受けるが、手術後も闘病生活を続けながら、自ら最後の作品と定めた大作『東海道』(1990)に取り組む。街道沿いの風景を鍛え上げられた造形感覚で映像化した同シリーズは、死去の年に写真集として刊行された。92年(平成4)徳山市と同市文化振興財団がアマチュア写真家を対象にした林忠彦賞を創設。同年には『林忠彦写真全集』が刊行されるなど、死後もその生涯を検証し、業績を受け継ごうという動きが続いている。
[飯沢耕太郎]
『『小説のふるさと』(1957・中央公論社)』▽『『日本の作家』(1971・主婦と生活社)』▽『『日本の画家108人』(1978・美術出版社)』▽『『カストリ時代』(1980・朝日ソノラマ)』▽『『現代日本写真全集 日本の心 第8巻 長崎 海と十字架』(1980・集英社)』▽『『若き修羅たちの里 長州路』(1981・講談社)』▽『『昭和写真・全仕事3 林忠彦』(1982・朝日新聞社)』▽『『日本の家元』(1983・集英社)』▽『『東海道』(1990・集英社)』▽『『林忠彦写真全集』(1992・平凡社)』▽『『日本の写真家25 林忠彦』(1998・岩波書店)』▽『岡井耀毅著『評伝林忠彦 時代の風景』(2000・朝日新聞社)』
昭和期の写真家 日本写真学園校長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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