写真家。鳥取県西伯(さいはく)郡境町(現境港(さかいみなと)市)に生まれる。1925年(大正14)旧制鳥取県立米子中学校入学。中学3年のころより写真に夢中になる。31年(昭和6)同校卒業、アマチュア写真クラブである米子写友会に入会。鳥取県赤碕(あかさき)町(現琴浦(ことうら)町)に住んだ。絵画主義(ピクトリアリズム。絵画の主題や手法に準じる写真の様式。19世紀末から1920年代にかけて欧米や日本で広く流行した)の写真家を代表する一人であった塩谷定好(しおたにていこう)に憧れる。32年上京し美松(みまつ)百貨店の写真室で見習いをした後、オリエンタル写真学校に入学。卒業後帰郷し、写真館を開業。同年日本光画協会会員となる。『写真サロン』をはじめとする写真雑誌の月例懸賞につぎつぎと入選し、頭角を現していく。37年2月岡山の石津良介(1907―86)を中心として中国地方の写真雑誌の月例懸賞で活躍する仲間が集結した「中国写真家集団」の創立同人となる。
1948年(昭和23)焼け跡の東京・銀座で、第二次世界大戦後の写真界の再編成を担うこととなるプロ、アマチュア、編集者混成の写真家集団「銀龍社」が結成され、植田も石津の勧誘で岡山の緑川洋一とともに参加し、その後生涯の友となる林忠彦、秋山庄太郎、桑原甲子雄(きねお)らに出会う。
1949年に発表した「綴方(つづりかた)・私の家族」をはじめとする、砂丘にさまざまなポーズの人物を点在させた一連の砂丘群像演出写真で高い評価を得る。50年山陰の写真家を募った「写真家集団エタン派」を結成し、以後後進の育成に多大な功績を残す。54年第2回二科賞受賞。57年以降毎年秋山庄太郎、岩宮武二(1920―89)、林忠彦、堀内初太郎(1909―86)、緑川洋一と六人展を開催。71年「童暦(わらべごよみ)」展を開催し、同名の写真集が中央公論社「映像の現代」シリーズの1冊として刊行される。
海外でも高い評価を受け、1978年フランスのアルル・フォト・フェスティバルに招待され、80年には西ドイツ「フォトキナ写真展」の出品作家に選ばれる。1975年より九州産業大学教授を務める(~93)。日本写真協会年度賞(1975)、日本写真協会功労賞(1989)、フランスのフランス芸術文化勲章シュバリエ章(1996)などを受けた。95年(平成7)植田正治写真美術館が鳥取県西伯郡岸本町(現、伯耆(ほうき)町)に開館。
[蔦谷典子]
『『童暦』(1971・中央公論社)』▽『『植田正治小旅行写真帳・音のない記憶』(1974・日本カメラ社)』▽『『砂丘・子供の四季』(1978・朝日ソノラマ)』▽『『植田正治ベス単写真帳・白い風』(1981・日本カメラ社)』
昭和・平成期の写真家 植田正治写真美術館館長;元・九州産業大学教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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