植田正治(読み)ウエダショウジ

デジタル大辞泉 「植田正治」の意味・読み・例文・類語

うえだ‐しょうじ〔うゑだシヤウヂ〕【植田正治】

[1913~2000]写真家鳥取の生まれ。郷里である山陰地方風物を多く撮影。代表作に、被写体オブジェのように配置し撮影した「砂丘シリーズ」など。演出技法は植田調とよばれ、海外でも高い評価を得た。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「植田正治」の意味・わかりやすい解説

植田正治
うえだしょうじ
(1913―2000)

写真家。鳥取県西伯(さいはく)郡境町(現境港(さかいみなと)市)に生まれる。1925年(大正14)旧制鳥取県立米子中学校入学。中学3年のころより写真に夢中になる。31年(昭和6)同校卒業、アマチュア写真クラブである米子写友会に入会。鳥取県赤碕(あかさき)町(現琴浦(ことうら)町)に住んだ。絵画主義ピクトリアリズム。絵画の主題や手法に準じる写真の様式。19世紀末から1920年代にかけて欧米や日本で広く流行した)の写真家を代表する一人であった塩谷定好(しおたにていこう)に憧れる。32年上京し美松(みまつ)百貨店の写真室で見習いをした後、オリエンタル写真学校に入学。卒業後帰郷し、写真館を開業。同年日本光画協会会員となる。『写真サロン』をはじめとする写真雑誌の月例懸賞につぎつぎと入選し、頭角を現していく。37年2月岡山の石津良介(1907―86)を中心として中国地方の写真雑誌の月例懸賞で活躍する仲間が集結した「中国写真家集団」の創立同人となる。

 1948年(昭和23)焼け跡の東京・銀座で、第二次世界大戦後の写真界の再編成を担うこととなるプロ、アマチュア、編集者混成の写真家集団「銀龍社」が結成され、植田も石津の勧誘で岡山の緑川洋一とともに参加し、その後生涯の友となる林忠彦秋山庄太郎桑原甲子雄(きねお)らに出会う。

 1949年に発表した「綴方(つづりかた)・私の家族」をはじめとする、砂丘にさまざまなポーズの人物を点在させた一連の砂丘群像演出写真で高い評価を得る。50年山陰の写真家を募った「写真家集団エタン派」を結成し、以後後進の育成に多大な功績を残す。54年第2回二科賞受賞。57年以降毎年秋山庄太郎、岩宮武二(1920―89)、林忠彦、堀内初太郎(1909―86)、緑川洋一と六人展を開催。71年「童暦(わらべごよみ)」展を開催し、同名の写真集中央公論社「映像の現代」シリーズの1冊として刊行される。

 海外でも高い評価を受け、1978年フランスのアルル・フォト・フェスティバルに招待され、80年には西ドイツ「フォトキナ写真展」の出品作家に選ばれる。1975年より九州産業大学教授を務める(~93)。日本写真協会年度賞(1975)、日本写真協会功労賞(1989)、フランスのフランス芸術文化勲章シュバリエ章(1996)などを受けた。95年(平成7)植田正治写真美術館が鳥取県西伯郡岸本町(現、伯耆(ほうき)町)に開館。

[蔦谷典子]

『『童暦』(1971・中央公論社)』『『植田正治小旅行写真帳・音のない記憶』(1974・日本カメラ社)』『『砂丘・子供の四季』(1978・朝日ソノラマ)』『『植田正治ベス単写真帳・白い風』(1981・日本カメラ社)』

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20世紀日本人名事典 「植田正治」の解説

植田 正治
ウエダ ショウジ

昭和・平成期の写真家 植田正治写真美術館館長;元・九州産業大学教授。



生年
大正2(1913)年3月27日

没年
平成12(2000)年7月4日

出生地
鳥取県境港市

学歴〔年〕
米子中卒,オリエンタル写真学校〔昭和7年〕卒

主な受賞名〔年〕
二科賞〔昭和29年〕,日本写真協会賞年度賞〔昭和50年〕,ADC賞〔昭和59年〕,勲五等双光旭日章〔昭和60年〕,東川賞(第4回)〔昭和63年〕,日本写真協会賞功労賞〔平成1年〕,芸術文化勲章シュバリエ章〔平成8年〕

経歴
学校卒業後帰郷し、19歳で写真場を開業。鳥取砂丘をはじめ山陰地方を舞台に写真を撮り続けた。昭和39年日本写真美術展特賞を受賞した「少女四態」以降の「砂丘」シリーズで、空白の多い“植田調”といわれる独自のスタイルを確立。米国・仏・独・伊など海外での写真展も多く、二科賞、日本写真家協会年度賞など受賞多数。平成7年鳥取県岸本町に1万2千点を集めた植田正治写真美術館が開館。九州産業大学芸術学部写真学科教授も務めた。写真集に「童暦」「音のない記憶」「軌道回帰」「砂丘」「新出雲風土記」「土門拳と石津良介」「ひと、たち」「もの、たち」他。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「植田正治」の意味・わかりやすい解説

植田正治
うえだしょうじ

[生]1913.3.27. 鳥取,境
[没]2000.7.4. 鳥取,米子
写真家。砂丘を舞台に,人物を独特の構図に配した「演出写真」で知られた。1932年オリエンタル写真学校を卒業後,帰郷して 19歳で写真館を開業。かたわら写真雑誌『アサヒカメラ』などに投稿して腕を磨き,鳥取砂丘をはじめ山陰地方を舞台に写真を撮り続けた。生まれ育った土地の風物を愛情をこめてとらえるだけでなく,独自の視点から美を引き出した。1939年に日本写真美術展特選を受賞した『少女四態』以降の「砂丘」シリーズで独得の空間を構成,「植田調」と呼ばれる独自のスタイルを確立。アメリカ合衆国,イタリア,ドイツ,フランスなどの海外諸国でも写真展を開催して高く評価された。1954年第2回二科賞受賞,1996年フランスの芸術文化勲章シュバリエ受章。1995年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館が開館した。写真集に『童暦』(1971),『植田正治小旅行写真帖 音のない記憶』(1974),『砂丘・子供の四季』(1978)など。

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百科事典マイペディア 「植田正治」の意味・わかりやすい解説

植田正治【うえだしょうじ】

写真家。鳥取県生れ。米子中卒業後,家業の履物製造・小売業を手伝うかたわら,写真に興味を持ちはじめる。1931年米子写友会および日本光画協会に入会し,アマチュア写真家としての活動を始め,カメラ雑誌に投稿して入選するなど頭角を現す。1932年植田写真場開業。モダニズムの時代にあって,抒情性豊かな独自の人物写真のスタイルを確立。戦後は,鳥取砂丘を背景に演出して人物を配したユニークなシリーズを発表。土門拳らが提唱したリアリズム写真運動の流れとは相反したが,そのモダンな感覚は日本写真史上に貴重な足跡を残している。1975年に《出雲》などで日本写真家協会年度賞受賞。1995年鳥取県岸本町(現・伯耆町)に植田正治写真美術館開館。
→関連項目米子市美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植田正治」の解説

植田正治 うえだ-しょうじ

1913-2000 昭和-平成時代の写真家。
大正2年3月27日生まれ。東京オリエンタル写真学校卒業後,郷里の鳥取県で写真館を開業し,山陰地方の風物をとりつづける。代表作に「砂丘シリーズ」など。昭和29年二科賞,50年日本写真協会年度賞。海外での写真展もおおい。平成8年フランス芸術文化勲章シュバリエ。九州産業大教授。平成12年7月4日死去。87歳。写真集に「童暦」「音のない記憶」など。

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367日誕生日大事典 「植田正治」の解説

植田 正治 (うえだ しょうじ)

生年月日:1913年3月27日
昭和時代;平成時代の写真家
2000年没

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