羊かん(読み)ようかん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

羊かん
ようかん

(あん)に砂糖を入れて蒸し、または寒天を加えて練った和菓子で、棹物(さおもの)菓子の代表。羊羹または羊肝とも書き、古くはヒツジの肝(きも)や肉のあつもの(羹。熱いもの)、つまり今日の汁の意で、羊羹、鼈羹(べっかん)、雉羹(ちかん)、猪羹(ちょかん)など48種ほどあり、これらは汁椀(わん)に浮かせた蒸し物であった。その仕法は奈良時代に渡来人や遣唐使がもたらし、貴族、高僧など上流階級の食膳(しょくぜん)に枢要な地位を占める料理となったが、肉食を禁忌する日本では、実際に獣肉を使う調理は早々に廃れ、室町時代には「鼈羹は、足、手、尾、首を残し、甲より食うなり。猪羹は首より食うなり」などと、食べ方が定められている。これらは、カメやイノシシに模した植物性材料によるあつものに変わっていったことを示すものである。あつものとしての羊かんは、赤小豆(あずき)粉、すりおろしのヤマノイモ、砂糖、小麦粉に葛粉(くずこ)少量を加えてこね、ヒツジの肝の形に切って蒸し、汁の実に入れたもので、鼈羹のつくり方も、形のほかは製法にほとんど変わりがない。そして材料と仕法は、今日の蒸し羊かんの基礎をなすものであった。
 やがて茶道の興隆は、あつものとしての羊かんを、汁の実から茶の子として独立させていった。したがって菓子の仲間入りをした羊かんのなかでは、蒸し羊かんがいちばん古い歴史をもつ。一方、米粉と黒糖をこねて蒸した羊肝餅が、室町時代に小田原外郎家(ういろうけ)の始祖陳宗敬により中国からもたらされた。これは外郎薬の口直しに用いられたものだが、独立して菓子のういろうが完成された。ういろう餅とも、ういろう羊かんともいい、やはり蒸し羊かんの一種である。
 練り羊かんは1589年(天正17)に、和歌山の駿河(するが)屋の5代目岡本善右衛門によりつくられた。寒天を煮溶かし、これに生臙脂(しょうえんじ)で紅色に染めた白小豆の漉し餡(こしあん)を加えて槽(ふね)に流し固めたもので、桃山文化を反映した豪華な茶菓子の誕生であった。槽に流し込んで棹物に切る形態もこの時点で生まれた。槽は箱状で、一槽から長さ六寸、一寸角の大きさで12棹に切るのが定寸であった。ついで1626年(寛永3)、金沢の茶人浅香忠左衛門が赤小豆で羊かんをつくり、前田利常(としつね)に激賞された。これが東京・本郷にある藤村(ふじむら)羊羹の始まりである。江戸時代の文化・文政(ぶんかぶんせい)年間(1804~1830)は江戸羊かん全盛時代で、藤村をはじめ、大坂家伊勢大掾(いせだいじょう)、鈴木越後(えちご)、船橋屋織江(おりえ)、金沢丹後(たんご)などの名舗が逸品を競い合ったが、1861年(文久1)には寒天の量を少なく、水分を多くした水羊かんも、江戸清寿軒で創製されている。この時代には寒天を主材とした金玉かん、淡雪かん、みぞれかんも夏の味覚として流行し、練り羊かんも百合(ゆり)羹、千鳥羹、琥珀(こはく)羹、杢目羹、朝日羹など多彩をきわめた。その一方で古顔の蒸し羊かんは下物となり、練り羊かんの半値となって、関西では丁稚(でっち)羊かんと称された。のちに駄菓子屋に並ぶ芋(いも)羊かんも蒸し羊かんの一つだが、もとは料理品目のうちであった。
 今日の有名羊かんには虎屋(とらや)、塩瀬、大坂家(東京)、鶴屋八幡(つるやはちまん)(大阪)、駿河屋(和歌山)をはじめ、長野県小布施(おぶせ)町の栗(くり)羊かん、同県下諏訪(しもすわ)町の塩羊羹、島根県安来(やすぎ)町の千鳥羹、岐阜県中津川市の山路(やまみち)、ささ栗、大垣市の柿(かき)羊羹、愛媛県松山市の薄墨(うすずみ)羊羹、佐賀県の小城(おぎ)羊羹、栃木県の日光羊羹、鹿児島市の木目(きもく)羹、鳥取県米子(よなご)市の白羊羹、静岡県清水(しみず)市(現静岡市)の追分(おいわけ)羊かん、兵庫県明石(あかし)市の丁稚羊かんなど数はきわめて多い。[沢 史生]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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