和菓子の一種。現在は甘みの菓子であるが,もともとは中国で古くからつくられていた羊肉の羹(あつもの),つまり汁であった。日本で初めて〈羊羹〉の語が見られるのは南北朝~室町初期に成立した《庭訓往来》などの往来物においてであり,このときすでに汁でなくなっていた。また,本来〈ようこう〉と読むべきものを〈ようかん〉というようになっていた。《庭訓往来》などには,点心の品目として鼈羹(べつかん),猪羹(ちよかん),驢腸羹(ろちようかん)などとともに羊羹,砂糖羊羹の名が見られるが,それらは〈惣(そう)じて羹は四十八かんの拵様(こしらえよう)有りといへども,多くは其の形によりて名有り〉と《庖丁聞書》にあるように,〈羹(かん)〉と総称され,スッポンの形にすれば鼈羹,猪(ブタ)の形にすれば猪羹といったぐあいに,形によっていろいろな呼名がつけられていたようである。伊勢貞丈によると,鼈羹はヤマノイモ,アズキのこし粉,小麦粉を用い,羊羹はアズキのこし粉,葛粉(くずこ),もち米の粉を用い,それぞれ甘味料を加えてこね,蒸したものだという。また,ふつうの羊羹は甘葛(あまずら)を使ったので,貴重品の砂糖を使ったものをとくに砂糖羊羹と呼んだ,とも貞丈はいっている。いずれにせよ,今の蒸しようかんにあたるが,この日本のようかんは汁物のそれから変化したのではなく,羊肝糕(ようかんこう)という餅の一種が伝わったものだと《嬉遊笑覧》はいう。羹,糕,ともに音が〈こう〉なので,糕とすべきところを誤って羹と書いたのだともいう。羊肝糕の名の出所は不明のようだが,明(みん)では蒸しようかんを豆沙糕(とうさこう)と呼んだといい,色がヒツジの肝に似ていることからすると,この説は首肯できそうである。とにかく,日本のようかんはこうして始まったが,それから400年近くの間は蒸しようかんだけがつくられていた。
練りようかんが出現したのは18世紀末ころになる。江戸では寛政(1789-1801)の初めに日本橋で喜太郎なる人物がつくり出して評判になり,練りようかんを食べさせるというだけで人を招くほどであったと,山東京山は《蜘蛛の糸巻》(1846)で回想している。また,《武江年表》は享和年間(1801-04)に日本橋本町の紅谷志津摩(べにやしづま)が始めたとしており,《菓子話船橋(かしわふなばし)》(1841)の著者である船橋屋織江は同書の中で,〈文化の初,僕(やつがれ)が深川佐賀町に店を開きし頃には何処にも種類なく,一日に煉羊羹のみ八百棹,千棹の商内(あきない)〉があったといい,また〈今は……常の羊羹はあれども無きが如く〉と,練りようかんばかりが好まれるようになって蒸しようかんはまったくすたれたといっている。しかし,江戸時代きっての名店とされる日本橋本町の鈴木越後は依然蒸しようかんをつくっており,その声価がきわめて高かったことは《江戸名物詩》(1836)に見られるところである。
現在のようかんには,蒸物のようかんと流し物のようかんとがある。蒸しようかんやそれにみつ煮のクリを入れた栗蒸しようかんなどは前者に属する。〈でっち羊羹〉というおもしろい名の蒸しようかんがあるが,これは商家の丁稚(でつち)とは関係がなく,こねることを〈でっちる〉といったための呼称と思われる。流し物のようかんは寒天と砂糖を溶かし,これに各種のあんを配合して流し固めるもので,練りようかんや水ようかんがこれに属する。練りようかんは19世紀初めからようかんを代表するものとなり,今では材料,意匠にくふうをこらした製品が全国的につくられている。水ようかんは溶けるように軟らかくつくるもので,夏の菓子として喜ばれている。なお,芋ようかんはサツマイモを蒸して裏ごしにかけ,砂糖を加えてよくまぜ合わせ,浅い木箱に入れて押し固めるもので,独特の庶民的な味をもち,江戸時代には〈琉球羹〉などと呼ばれていた。
執筆者:鈴木 晋一
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