三輪村(読み)みわむら

日本歴史地名大系 「三輪村」の解説

三輪村
みわむら

[現在地名]桜井市大字三輪

三輪山の西南麓、かみ街道に沿い初瀬はせ川の渓口に位置する。中世の三輪市に始まる市場町として、また上街道の宿場町として、さらに大神おおみわ神社の門前町としても発達した集落である。

「古事記」崇神天皇段に、意富多多泥古命と活玉依毘売にちなむ「美和」の地名説話がみえる(→三輪山。「万葉集」に味酒うまざけは三輪にかかる枕詞として引用され、神酒・神器をミワと称し、「日本紀私記」には「神酒和語云美和」とある。またミワは水垣(水輪みわ)を意味する地形語説もある。事実、三輪の地域は初瀬川曲流地で、古来ミズガキ内として神聖視し、崇神天皇の磯城瑞籬しきみずがき(「古事記」では水垣につくる)伝承地となっている。なおミワの語源については、神槨みわ説・磯城(御磐みいわ)説・斎庭みわ説・御輪(円山)説などがあるが、一に大神おおみわと書くように、絶対的な霊力をもつ地主神として、古代以来、信仰の対象となっている。

「和名抄」城上しきのかみ大神おおみわ郷に属し、寛平三年(八九一)四月大神郷長解写(正親町家旧蔵文書)には「大神郷」、長承二年(一一三三)の権少僧都大神荘相博券案(東大寺文書)には「大神庄」、久安四年(一一四八)九月の雑役免内顛倒庄注進状(同文書)には「大神庄号三和庄」と記す。

三輪村
みわむら

[現在地名]揖斐川町三輪

揖斐川左岸の平坦地にあり、古くから交通・政治上の要衝として町場が形成された。一四世紀半ばには土岐頼雄の居城である揖斐城が築かれ、近世初頭には揖斐藩主西尾嘉教の政庁が置かれた。同藩断絶後は美濃国奉行岡田善同の陣屋も置かれている。三和とも書き、中世は近衛家領(のち奈良興福寺領)揖斐庄の内として推移。観応二年(一三五一)三月日の揖斐庄百姓等申状案(興福寺別当次第裏書)に「揖斐庄北方・南方・三和三ケ保百姓等」とみえ、永和元年(一三七五)一一月一五日の沙弥祐康寄進状(大興寺文書)には同庄「三輪保犬丸名」とある。「新撰美濃志」によれば古くは揖斐村とも称したという。慶長郷帳に村名がみえ、高九〇三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では田五九六石余・畑一二七石余・山年貢一石・城屋敷土居堀侍屋敷に成分として二一八石余、このうち旗本(美濃郡代)岡田善政領九三四石余・伊勢神宮領一石余・三輪明神領三石・松林寺領五石、ほかに新開三七〇石。

三輪村
みわむら

[現在地名]町田市三輪町・三輪緑山みわみどりやま

能ヶ谷のうがや村の南にあり、都筑つづき郡に三方を囲まれる。上三輪村・下三輪村ともみえる。中世は小山田おやまだ庄内と推定される。「風土記稿」によると、小田原北条氏の家臣市川定友からその孫定吉まで三輪・大蔵おおくらを知行したという。年未詳二月二六日の北条氏照朱印状(吉川泰長氏所蔵文書)に、当郷(広袴か)の馬どもをことごとく集めて「三輪」の御城米をの島(現神奈川県藤沢市)まで運べとある。地内の沢山さわやま城に米倉があり、この指令は豊臣政権との決戦に備えた措置であろう。沢山城跡の試掘調査で焼米が発見されたのは米倉の存在を裏付けるといえよう。曹洞宗の広慶こうけい寺の開山は最安慶初(天正一二年没)と伝える。天竺伝来と称する中国風の観音菩薩石像を安置する。

三輪村
みわむら

[現在地名]岐阜市三輪・三輪宮前みわみやまえ三輪宮西みわみやにし

北野きたの村の東、武儀むぎ川右岸にあり、北東は宮之上みやのうえ村。恵利えり(現武儀郡武芸川町)蔵の大般若経奥書に「富永庄三輪真長寺」とあり、延文四年(一三五九)の年紀がみえる。文明八年(一四七六)一月一三日の慶静坊観栄売券(真長寺文書)では「坪本三輪地蔵堂前もゝのきわ」を代銭三貫九七〇文で売渡している。文禄四年(一五九五)の名寄帳(岐阜大学郷土博物館蔵)によれば、高四三八石余のうち永不作三〇石余・片毛三七石余・おこし三六石。関ヶ原合戦後、幕府領として推移するが、元和五年(一六一九)までは当村に陣屋を置いた栗原盛清が代官として支配した。陣屋の遺構は残っていない。

三輪村
みわむら

[現在地名]袋井市山崎やまざき

城東きとう郡に所属。小笠山おがさやま丘陵の南西端部の山間地に位置する。南部は縄文海進の潟の残存とされる湖と湿地帯。北西は岡崎おかざき村。観応二年(一三五一)六月二八日の琳覚寄進状(中山文書)に「三和郷」とみえ、琳覚が郷内五段の田地を高松社(現浜岡町)に寄進している。永禄九年(一五六六)二月二日、小笠原氏興は三和などのうちの新田分を小笠原与左衛門尉に与えている(「小笠原氏興判物」小笠原文書)。元亀二年(一五七一)四月二一日、今川氏真は懸河かけがわ城籠城中、三浦義次父子が三輪構を守備したことを賞し、本地などを安堵している(「今川氏真判物写」記録御用所本古文書)

三輪村
みわむら

[現在地名]延岡市下三輪町しもみわまち中三輪町なかみわまち上三輪町かみみわまち

恒富つねとみ村の西、南方みなみかた村の南に位置し、五ヶ瀬川南岸の平地と山地および丘陵上に立地する。天永元年(一一一〇)一一月日の今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)に三和とみえ、一〇月放生会の神馬東舞二人を伊福形いがたとともに負担している。

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高三〇〇石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では内検高二七九石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高三〇〇石余・新田高二二石余(ほかに新田出高一六石余)

三輪村
みわむら

[現在地名]小川町三輪

恩田おんだ村の南、塩那えんな丘陵の東斜面に位置し、東辺を権津ごんづ川が南東流する。南は東戸田ひがしとだ村。西部は川支流いわ川水系に属する谷間で、小梨おなし集落がある。古代那須郡三和みわ(和名抄)の遺称地。江戸時代を通じて烏山藩領で、畑方年貢米納の村。輪王寺本慶安郷帳では高六一二石余、吉永本では東戸田村の記載が当村に該当すると考えられ、田高四四五石余・畑高一六六石余。元禄五年(一六九二)には人数三六〇、本百姓五五・水呑八・浪人三、馬七八(小川町誌)

三輪村
みわむら

[現在地名]岡部町三輪

内谷うつたに村の南東に位置し、高草たかくさ山の西麓から平野部に立地する。南は横内よこうち(現藤枝市)。村名は当地の式内社みわ神社に由来する。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)によると、駿府浅間社(静岡浅間神社)の六月二〇日の祭礼の流鏑馬郷役として一貫一〇〇文を課せられた「大住朝比奈山」の注記に「本ハ壱貫六百致候、二年め三輪郷、此役之時ハ弐貫百文也、三年め中村」とある。しかし「大住朝比奈山」が明確でないため当地との関係は不詳。

三輪村
みわむら

[現在地名]三田市三輪・三輪一―四丁目

三田町の北、南東流する武庫むこ川左岸の三田盆地に立地する。北部は寒阪かんさか山を含む丘陵地帯。丹波への街道が通る。慶長国絵図に三輪村とみえ、高六〇五石余。慶長八年(一六〇三)に三輪町を分離し一町一村となったという(有馬郡誌)。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)では武庫川左岸の丹波への街道沿いに桶屋おけや町・しん町がみえ、両町は実質上三田町に組込まれていき、三田十丁町を構成する。

三輪村
みわむら

[現在地名]長野市大字三輪

長野ながの村の善光寺から東北に通ずる北国脇往還に沿う村。東はそりめ村・平林ひらばやし村と水路で境し、西は長野村・上松うえまつ村と境し、南は高田たかだ村・七瀬川原ななせかわらと境し、北は下宇木しもうき村と境する。鐘鋳かない川が村の中央を東流し、北国脇往還に沿って街村集落をつくるほかは、水田地帯であった。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「千百拾七石五斗六合 三輪村」とある。

嘉暦四年(一三二九)の「諏方上宮五月会流鏑馬之頭・花会頭可為同前御射山頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に五番五月会分として「右頭、東条庄内和田郷和田三河入道、石渡戸・三和条・富武地頭等」とある三和条はこの三輪村のことである。

三輪村
みわむら

[現在地名]大和町大字三輪

呉麓くれろく(二九三・八メートル)の北側に広がる山間の村。東部を田布施たぶせ川が南流、両岸に平地を形成する。熊毛宰判に属した。

「和名抄」に記される古代の熊毛郡の郷名のうちに「美和」がある。中世には、京都最勝光さいしようこう院領美和みわ庄の一部であった(東寺百合文書)。嘉禄三年(一二二七)三月の周防石城宮神官解(九条家冊子本「中右記」裏文書)のうちに「美和」の名がみえる。

三輪村
みわむら

[現在地名]総社市三輪

西三須にしみす村の南西に位置し、南東部に三輪山がある。一説では天平一一年(七三九)の備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)にみえる「美和郷」に比定される。永享元年(一四二九)の惣社宮造営帳写(池上文書)によれば、後陣を「三ハ」の紺掻がつとめている。戦国末期には宝福ほうふく寺の寺領七貫四〇〇文の地が三和郷にあった(天正四年「宝福寺領検地帳」宝福寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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