村松村(読み)むらまつむら

日本歴史地名大系 「村松村」の解説

村松村
むらまつむら

[現在地名]長岡市村松町

長岡町の南方約一里半、村松川(太田川)が東山丘陵より平野部に流れ出る扇状地に形成された集落。古くは魚沼地方から蒲原かんばら地方へ抜ける山腰やまこし(現古志郡山古志村)の往来が頻繁の駅路で、耶麻やま(山)の駅とも称した。南西方向の山麓に字小山こやまがある。古耶麻こやまの意で、村松本村より早く開けたところという。志度野岐しとのき庄上条の北辺にあたり、上条じようじよう石坂いしざか村とよばれた地域に属する。当地の北の釜沢かまざわは下条に属している。また耶麻神社とも称された広道ひろみち一之宮いちのみや社にかかわる地で、文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)には飯沼弾正左衛門尉分高波たかなみ保のなかに石坂八方の寄進になる「一宮大宮司分」は、文明一六年の検地による本田と増分および同一九年再検地増分を合せて一千九四〇苅を記す。天正村名考(温古之栞)に「山三百九十五軒・小山三十五軒」と伝え、やまは村松本村、小山は字小山をさす。


村松村
むらまつむら

[現在地名]琴海町村松郷むらまつごう

戸根とね村の南に位置し、東部は内海(大村湾)に臨む。かすみ岳を水源とする村松川が流れる。江戸時代は大村領の内海うちめに属する。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「むらまつ村」の「井手善右衛門尉るいす」らが署名している。日蓮宗の本住山自証じしよう寺にある寛永一六年(一六三九)銘の自証院妙安日住大姉という位牌は、大村藩主大村喜前(大村純忠の子)の姉のもので、戸根のマリナと称された。孫の浅田安昌がその霊を慰めるために法要を営み、同寺を建立した。寛永五年キリシタン詮索の申渡しがあり、「村松」では問の内助が署名しているが、同一六年には問・べんさしの署名となっている(「切支丹法度書」大村見聞集)。村方役人ははじめ一人で横目・手代・問を兼ねていたが、元禄一四年(一七〇一)横目役所が設けられた。


村松村
むらまつむら

[現在地名]清水市村松・幸町さいわいちよう新緑町しんみどりちよう沼田町ぬまたちよう日立町ひたちちようみどり丘町おかちよう向田町むかいだちよう村松原むらまつはら一―三丁目・月見町つきみちよう中矢部町なかやべちよう清開せいかい二丁目・村松一丁目・上力町じようりきちよう庄福町しようふくちよう

宮一色みやいつしき村の北、有度山うどさん丘陵の東麓にあり、東は海(折戸湾)に面する。集落は久能道が通る折戸おりど湾沿いの浜堤上と有度山東麓のおくに分れ、大部分は折戸湾沿いに形成されていた。「本化別頭仏祖統記」に暦応元年(一三三八)三月一七日村松海上寺(海長寺)日賢が没したとみえる。日海記(海長寺蔵)によると、明応七年(一四九八)頃の当地の地頭は福島修理進であった。


村松村
むらまつむら

[現在地名]袋井市村松

周知すち郡に所属。南は久津部くつべ村。宇刈うがり丘陵より南に延びた尾根とその間の谷地に立地する。谷奥の油山ゆさん瑠璃るりの滝(油之滝)を源とする滝之たきの(現油山寺川)が谷間を南に流れ沖之おきの川と合流する。油山寺は中世には「山名郡東西谷油山寺」と記され(円通松堂禅師語録)、所在地を「東西谷」と呼称した。建治元年(一二七五)五月の六条八幡宮造営注文(国立歴史民俗博物館蔵)に遠江御家人として当地出自と思われる「東西谷五郎」がみえる。永禄三年(一五六〇)一二月九日、二俣ふたまた(現天竜市)城主松井宗恒の奏者人数のうちに後裔と思われる東西谷六郎次郎がみえる(「今川氏真判物写」土佐国蠧簡集残篇)


村松村
むらまつむら

[現在地名]伊予三島市村松町

嶺北の東部に位置し、東は妻鳥めんどり(現川之江市)、南は下柏しもがしわ村、西は三島村に接し、北はひうち灘に面する山のない農村。村の中央を往還筋が東西に走り、海岸の八綱やつな浦の松並木の中を浜手道が通っていた。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項に「村松村 日損所」とみえる。

和名抄」にみえる宇摩郡山口やまぐち郷に属したとされ、寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡村松村明細帳には「村松村 福嶋左衛門大夫様御検地加藤左馬助様御検地ニ御座候」とある。戦国時代末から江戸時代初めには諸領主領を経て、元禄一一年(一六九八)に今治藩領となって幕末に至る。

寛政九年の村松村明細帳によると、村高のうち田三三町一三歩、畑八町五反四畝七歩とあり、低平地のため田が多い。


村松村
むらまつむら

[現在地名]桐生市宮本町みやもとちよう一―四丁目・堤町つつみちよう一―三丁目・永楽町えいらくちよう

吾妻あづま山の南麓に位置し、東は桐生新町きりゆうしんまち、西は東小倉ひがしおぐら村、南は堤村。村松沢むらまつざわ皿久保さらくぼには縄文早期の遺跡がある。天正一八年(一五九〇)の修験旦那帳(北山文書)美和みわ神社神主小島刑部の名を「村松大夫刑部」と記す。元禄郷帳では荒戸村のうち村松村とある。近世後期の御改革組合村高帳では高一八一石余、旗本布施領、家数一四。明治五年(一八七二)の家数一〇四、うち農業四九・機業三七・職人六・商人三・煮売一・雑業八(桐生市史)。同六年安楽土あらと村となる。当地には美和神社・八坂神社御岳神社、東上州三十三番札所第三二番曹洞宗光明こうみよう寺、天台宗長福ちようふく寺がある。


村松村
むらまつむら

[現在地名]東海村村松

東は海に面し、南をしん川が東流する。北は石神白方いしがみしらかた村。西は須和間すわま村。「新編常陸国誌」に「中世佐竹氏ノ一族、真崎氏アリ、即村中真崎ノ地ニ起ル、其居城ノ址今存ス」とある。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「むら松」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「村松村」とある。「水府志料」に「此村を二ツにわけ、西方、東方と称す。然れども土地交錯してわかつべからず」とある。


村松村
むらまつむら

[現在地名]渥美町村松

東は八王子はちおうじ村、西は石神いしがみ村、北は伊川津いかわづ馬伏ばぶし両村に隣接する。「三代実録」の貞観二年(八六〇)八月一四日の条に「参河国献銅鐸一、高三尺四寸、径一尺四寸、於渥美郡村松山中之、或曰、是阿育王之宝鐸也」とあり、村松の地名がみえ、銅鐸一個が発掘されている。慶長六年(一六〇一)以来の幕府領で、寛永二年(一六二五)旗本清水権之助領となり、天和元年(一六八一)鳥羽藩土井利益領に編入され、享保一〇年(一七二五)に再び幕府領となり、天明二年(一七八二)旗本本多帯刀領となって明治に至った。


村松村
むらまつむら

[現在地名]伊勢市村松町

有滝ありたき村と東大淀ひがしおいず村の間、伊勢湾に面する。中世伊勢神宮領が成立し、「神鳳鈔」に「外宮段別七升宛村松御薗」、「外宮神領目録」に「村松御厨上分田廿七町段別七升上分十八石九斗此外麦雑事等在之」と記されている。「寛政重修諸家譜」によれば、天正一二年(一五八四)小浜景隆は「伊勢生津村松」において戦功を立てている。村松の地名は廊之坊諸国旦那帳(潮崎万良文書)や実報院諸国旦那帳(米良文書)にもみえる。鳥羽藩領で、慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば高八三六石余のうち田方が五七八石余。外宮禰宜度会家行の居宅があり村松長官とよばれた。


村松村
むらまつむら

[現在地名]小松市村松町

東はくし川を隔てて串村、北は松崎まつざき村、南は柴山しばやま潟に接する。もと松崎村の一部で、万治三年(一六六〇)大聖寺藩領になった時に村立てされたという。「江沼志稿」では高一七石余、免は本開畠一二石に対しては一ツ五分、残りに対しては一ツ二分で、小物成は野役一一匁・茅場役三匁・鍬米一斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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