デジタル大辞泉 「フランス革命」の意味・読み・例文・類語
フランス‐かくめい【フランス革命】
[補説]スローガンは「自由、平等、博愛(Liberté, Egalité, Fraternité)」。
フランス革命とは1789年7月14日から1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。
この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。
[岡本 明]
革命の思想を培養したものは、18世紀中葉からの啓蒙(けいもう)思想である。このうち、モンテスキューは三権の区別と有機的結合を説き、貴族制を生かした君主制を理想とし、ルイ14世流の絶対主義を批判した。ボルテールは宗教的狂信を非難して寛容論を唱え、ケネーは啓蒙的君主専制の下で地主国家への脱皮を説き、ディドロは人間本来の幸福を欲望の充足に認めた。最後にルソーは、文明への激しい批判から出発して、個人が契約により人格と所有権を譲渡するかわりに平等な公的権利を受け取る人民国家を構想した。これら各種の批判の的になった絶対王制は、身分制社会に立脚し、2500万国民の2%にすぎない僧侶(そうりょ)・貴族に免税特権を与えていた。彼ら特権身分は、第三身分とりわけ85%を占める農民の納税に寄生し、なおかつ封建領主としては領主制地代を徴しながら宮廷や地方で暮らしていた。ルイ16世(在位1774~1792)の政府は、それまでの累積赤字に加えて、アメリカ独立革命を救援した軍事費のため、財政の窮乏に陥った。このため、財務総監カロンヌはやむなく1787年2月に名士会を招集した(革命の開始点をこの時期にとる歴史家もある)。ここで特権身分にも課税する「補助地租」の提案を行ったが、僧侶・貴族の強い反対にあい、勅令審査権をもつ高等法院もこれに結託してカロンヌを失脚させた。同様に財務審議会長ブリエンヌと国璽尚書ラモアニョンの税制・司法改革も挫折(ざせつ)し、1788年8月ネッケルがふたたび財務長官に起用された。彼は第三身分の財力を借りて財政危機を乗り切ろうとし、高等法院が要求した全国三部会(エタ・ジェネロー)の招集に応じ、第三身分議員を倍増することを決めた。
[岡本 明]
全国三部会は1789年5月5日、ベルサイユ宮殿で開催された。僧侶・貴族議員は各300人、第三身分は約600人であった。シエイエスら第三身分議員は合同討議を主張し、僧族議員の一部がこれに和して6月17日国民議会を宣し、ラ・ファイエットなど自由主義貴族も合流して同月末、正式に承認された。国民議会は7月初めから憲法作成の作業にとりかかるが、アルトア伯など宮廷保守派は国王に圧力をかけ、ベルサイユ付近に軍隊を集結させたため、パリ市民に極度の不安を与えることとなった。
[岡本 明]
1789年7月11日、国王ルイ16世は事態の責任者としてネッケルを罷免した。この知らせがパリに届くと市民は激高し、同月14日約1万人が政治犯を収容していたバスチーユ牢獄(ろうごく)を襲撃、王室親衛隊がこれに加担し占拠した。翌日、旧体制最後のパリ市長ド・フレッセルと守備隊長ド・ローネーは殺され、宮廷の企図は阻まれた。パリは自治制の確立に向かい、選挙人会から市長バイイ、国民衛兵隊総司令官ラ・ファイエットが任命された。
[岡本 明]
地方ではパリの運動に呼応するかのように激しい農民騒擾(そうじょう)が起こった。すでに18世紀中葉から領主は地代滞納地の回収や、農民の出費による土地台帳の改訂を行って彼らの反発を浴びていたが、このころ、農村に野盗を放つという「貴族の陰謀」の流言におびえた農民は逆に領主の城館を襲い土地台帳を火に投じた。この騒擾を背景に、憲法制定議会(立憲議会)は1789年8月4日夜、ノアイエ子爵の提案で封建的特権と領主制の廃止を宣言し、法の前の平等の前提条件が実現した。ただし1790年3月、農奴身分にまつわる領主権は無償廃止されるが、土地に関する領主権、つまり領主制地代は貨幣による買戻しとされたため、小農層の不満は収まらなかった。立憲議会は次いで1789年8月26日、ラ・ファイエットやシエイエスらの草案をもとに人権宣言を可決し、人間の生来の自由、権利の平等、国民主権、租税の平等、所有権の神聖など新しい国民社会の基本原則を打ち出した。この人権宣言は、即政治的平等をうたっておらず、抵抗権の具体的な行使法も明記していないことから、ルソーの社会契約論や後のジャコバン=山岳派(モンタニャール)人権宣言とは同一視できないが、農村や都市民衆の運動を背景に、これをてことしつつ絶対王制や保守派貴族の抵抗を破って新しい市民社会の構成原理を宣明したといえよう。国王は封建的特権の廃止と人権宣言への同意をためらったが、10月5日、おりしもパン不足に悩まされていたパリ市場街の主婦たちは、ベルサイユまで行進し、議会に訴えるとともに翌6日王宮に乱入したため、国王は議会の意に添って宣言に同意し、同時に議会とともにパリに帰還した。これによって最終的に絶対王制への復帰の夢が奪われたといわれる。
[岡本 明]
立憲議会はすでにバルナーブの線に沿って一院制と国王の停止的拒否権を定め、立憲君主制の根幹を築いたが、財政の改善は、タレーランの提案どおり教会財産の国有化と売却によるほかないと考えた。かくして1790年5月から教会財産の競売が始まったが、支払手段として発行したアッシニャを紙幣に切り替え、漸次、大量発行していった。僧侶自身については政府から俸給を払われる役人とし、これを定めた僧侶民事法への宣誓を強制された。こうして聖界は立憲僧と宣誓拒否僧に分裂し、宣誓拒否僧は革命に敵対し始めた。立憲議会はこのほか、県制の施行、司法制度の整備、農事法の制定、ギルドの廃止など近代的改革を行ったが、納税額によって能動市民と受動市民との差別を設け、3日分の労賃に相当する直接税を納める市民にのみ、予選会での投票権、集会権、請願権を認め、国民衛兵からも受動市民を排除した。またル・シャプリエ法によって、職人・労働者の団結を禁止した。要するに立憲議会は、自由主義貴族と上層ブルジョアジーを主体としながら、領主制の地主制への脱皮と商工業の自由というブルジョア革命としての最小限の課題は果たそうとしたのである。ところが、国王一家は、1791年4月のミラボーの死後、革命の成り行きに不安を感じ、大臣任命権への制約に不満なこともあって、6月20日、パリからの逃亡を図りバレンヌで捕らえられた。パリの急進派はこれを怒り、とくにコルドリエ協会の市民は7月シャン・ド・マルスに王制廃止の請願運動を起こし、ラ・ファイエット指揮の国民衛兵はこれを鎮圧した。議会ではバルナーブらが憲法の完成を急ぎ、9月、全編を採択して解散した。
[岡本 明]
1791年10月1日招集された立法議会では、王権護持にたつフイヤン派と、王権を制約しようとするジロンド派が対立した。ジロンド派はベルニヨ、ジャンソネなど南西部の出身者と、ブリソ、コンドルセらパリ選出の理論家の寄り合い所帯で、地方貿易商、企業家をはじめとする中産ブルジョアを基盤にしていた。亡命者財産の没収や宣誓拒否僧への俸給の停止など強硬処置を可決させたが、同派の主眼は戦争政策にあった。戦争遂行のなかで国王の態度を明確にさせようとしたのである。1792年3月、ブリソは外相ドレッサールの軟弱外交を批判し、勢いに乗じて国王に内相ローランらのジロンド派内閣を任命させた。国王は4月20日、オーストリアに宣戦したが、内心は外国軍によって革命が抑えられることを願っていた。フランス軍は戦える態勢になく、将軍ラ・ファイエットらは攻撃不能を宣言。パリでは愛国的感情が高まり、国王が連盟兵の城外野営や近衛(このえ)兵の廃止決議に拒否権を発動したうえ、ジロンド派内閣を罷免したことも手伝って6月20日、市長ペチヨンを先頭にチュイルリー宮前の示威運動が起きた。
[岡本 明]
パリ諸区、国民衛兵隊、市総評議会は二つの陣営に分かれ始めたが、立法議会ではジロンド派が優位にたち、1792年7月11日に「祖国は危機にあり」の宣言が出された。同月19日には、国王行政権の停止を目的とした請願運動が、助役ダントンの勧めで民主派区を中心に展開された。ジャコバン協会の解散を企てて失敗したラ・ファイエットは、前線からオーストリアに投降した。ブリュンシュビック宣言が8月1日パリに伝わるや、請願運動は蜂起(ほうき)行動に転じ、同月9日パリ市庁を占拠して蜂起コミューンを樹立し、王党派の国民衛兵指揮官マンダを射殺した。呼びかけに応じて翌10日、場末サン・タントアーヌの国民衛兵を先頭に受動市民の武装隊も加わってチュイルリー宮へ数万が進撃、多数のスイス人傭兵(ようへい)を殺害した(八月十日事件)。国王一家は議会に難を逃れたが、身柄は新パリ市当局に引き渡された。王権は停止され、パリは蜂起コミューンの指揮下に置かれ、王党派の武装解除が断行された。9月初めベルダン陥落の知らせが入ると、マラーの呼びかけもあって激高した民衆は同月2日と3日アベイ監獄などを襲い、宣誓拒否僧を主とする囚人を虐殺した。
[岡本 明]
バルミーの戦勝の届く1792年9月21日、新憲法を作成するために国民公会が招集された。公会は王制の廃止を宣し、共和制が樹立された。蜂起コミューンのメンバーは少なからず公会のパリ県選出議員となり、また先の行きすぎを批判されて合法コミューンに交代することとなった。国民公会は、右翼に自由主義経済と議会主義にたつジロンド派、左翼にやはり中産ブルジョア出身だがパリ・コミューンや民衆と折り合いをつけようとする山岳派が対峙(たいじ)し、中央にキャスティング・ボートを握る平原派が位置した。山岳派のなかには、革命独裁を早くから主張したマラー、八月十日事件後に蜂起委員となったロベスピエールがおり、後のジロンド派離脱後のジャコバン・クラブを率い、いわゆるジャコバン派としてパリ世論に影響を及ぼした。
国民公会成立当初は、コンドルセとダントンの提携による国防連合政府が成立したが、まもなくローランとダントンが対立し、ルイ16世裁判問題でジロンド、山岳両派の反目は決定的となった。1793年1月21日、山岳派の主張が微差で通り、ルイ16世は公敵として処刑された。この対外的影響は大きく、2月初めにイギリス、オランダと、3月初めにはスペインと開戦することとなった。また2月末に議決した30万人徴用令は、宣誓拒否僧の影響を受けていたバンデー地方の農民一揆(いっき)(バンデーの反乱)を引き起こした。ジロンド派はなお政権を維持したが、将軍デュムーリエの北部戦線での頓挫(とんざ)のため苦境にたち、また食糧問題で放任政策を主張したことからパリ民衆の反感を買うこととなった。ロベスピエールなど山岳派は、過激派の一人ジャック・ルーを押したてた民衆の食糧暴動や、閣僚逮捕をねらったバルレらの蜂起行動を制しながら、革命裁判所を設置させ、ジャコバン・クラブを通し、また議員自ら3月末にパリ諸区に創設された革命委員会に赴いて民衆との接触を深め始めた。ジロンド派が決議したマラーの裁判は、パリ民衆の神経を逆なでし、その釈放後、急速に蜂起の気運が高まった。その際、1793年になって顕著にみられたアッシニャの下落、パン価格の騰貴、食糧の欠乏が重要な要因であったことを見逃してはならない。ジロンド派が助役エベールやバルレを逮捕してパリ・コミューン自治に介入しようとしたのが転機となり、1793年5月31日、6月2日両日の国民公会包囲でジロンド派議員の多くが追放された。
[岡本 明]
山岳派は平原派の消極的支持のうえに、公安委員会を軸として独裁体制を固めた。1792年8月20日の領主権の無償廃棄をさらに徹底し、農民の不安を取り除いた。1793年7月13日、マラーがジロンド派を信奉する女性コルデーに暗殺されるや、27日、公安委員会にロベスピエールが加わり、恐嚇手段の採用を本格的に検討し始めた。山岳派の共和国憲法は、男子直接普通選挙と選挙人会による議員喚問・法律の再審を原理的に承認した画期的なもので、前文をなす人権宣言も、所有権を否定しないながら平等を前面に出して蜂起権までをうたっていた。これは6月24日可決され、人民投票で圧倒的支持を受けたが、8月10日布告と同時に施行が延期されたのは、反革命の危険が迫っているためと説明された。次に山岳派内の自由経済支持勢力を抑え、買占め取締法と公設貯蔵庫の設置が定められ、8月23日にはカルノーの提議で国民総徴用令が可決された。干天のための飢饉(ききん)がパリ民衆をふたたび行動に駆り、9月5日にはエベール派を先頭に、最高価格令と食糧徴発のための「革命軍」を要求、国民公会はこれらをいれて29日、生活必需品39品目につき、一般最高価格令の制定などを行う一方、これに先だって反革命容疑者令を可決した。公安委員会もビヨー・バレンヌなど山岳派の急進分子を加え、ここに恐怖政治が日程に上った。なお、9月に改暦委員会が発足、11月には共和暦(革命暦)が公布、実施された。
[岡本 明]
前述のようにジャコバン派独裁による共和暦2年の恐怖政治は、民衆運動の政治的圧力を背景にし、議会主義を一歩超えた革命政府を軸に創出された。この社会的基盤は、中産市民下層と、小ブルジョア民衆のやや恵まれた部分にあったといえよう。その前半期は、革命委員会や人民協会、それに革命軍など民衆自身が構成する組織により、政府諸法が実施されたが、そこには教会閉鎖から礼拝禁止に進む非キリスト教化、大借地農や富裕商人の蓄財への干渉など、民衆的テロルが広がる余地があった。しかしこの間、追放されて以来ジロンド派が引き起こした連邦主義反乱、バンデーの貴族と農民の反乱、ミディ(南仏)の王党派の反乱などは共和国軍や派遣議員の力で鎮圧され、対外戦争でも1793年10月を境にフランスは反攻に転じていた。その結果、12月14日、革命政府は公安委員会独裁を整備し、民衆的テロルを抑制する方針を打ち出した。キリスト教破壊運動は農民層を敵に回すことから警告され、所有権の尊重が唱えられた。1794年3月、革命路線をめぐるエベール派とダントン派との抗争が強まったが、ロベスピエールは「徳と恐怖」を唱えて3月末から4月初めにかけ、両派を相次いで処刑した。これは、経済的統制を緩めつつも道徳的原理の裏づけを独裁に与えようとするものであった。しかしこれによってジャコバン派独裁を支える基盤は弱まり、さらにクートンの示唆になる6月10日の法律によって国民公会は議員を革命裁判所に引き渡す排他的権利を奪われたため、ロベスピエール独裁は議員さえも戦慄(せんりつ)させた。かくして独裁打倒の気運は高まり、公安委員会内部の対立も絡んで7月27日(共和暦2年テルミドール9日)、バラス、タリアンなどはロベスピエールとその一派を捕らえて処刑した。これをテルミドールの反動という。
[岡本 明]
テルミドール派はすぐさま、革命政府の改組、ジャコバン・クラブの閉鎖を行い、残る急進山岳派を追放、また1795年春の二度にわたるパリ民衆の食糧蜂起を鎮圧し、同年8月22日、共和暦3年の憲法を制定。10月27日には二院制議会と5人の総裁からなる総裁政府を発足させた。被選挙資格を高くつり上げ、上層・中産ブルジョアに有利な体制となった。これとは別に、シエイエスが推進した10月24日の法令が、武装蜂起した王党派、ひそかに帰国した亡命者、また宣誓拒否僧を市民権剥奪(はくだつ)の対象にしたため、敵対関係が固定化された。1796年、旧ジャコバン派と民衆の戦闘的分子を糾合し人民独裁をねらったバブーフの陰謀が未然に発覚したが、その後、1797年3月の選挙で立憲王党派が両院に進出し、前記の法令処置が廃止されたため、シエイエス、バラスらの純共和派は、軍隊の威力をてこにクーデターで王党派議員を追放した。ついで1798年の選挙におけるジャコバン派の進出に対して選挙の無効を宣し、1799年6月にはふたたびトレヤールら立憲王党派の総裁を排除した。このように総裁政府は再三にわたって非常手段を行使し、その権威は失墜した。財政政策は、低落を続けていたアッシニャ紙幣を回収・廃棄したものの、強制公債などに頼って旧フィナンシエ(王政と結託した金融業者)・銀行家層を冷遇した。司法・行政についても官職者が選挙制であったことから政治的圧力が大きく、安定性を欠いた。信仰の自由は確認されたとはいえ、立憲僧は俸給と公務員資格を奪われ、公的施設の礼拝を許されなかった。
[岡本 明]
こうしたなかで、国民公会解散時、王党派の反乱を鎮定した実績をもつナポレオン・ボナパルトがイタリア方面軍総司令官としてオーストリア軍を連破し、フランスでの名声を高めつつあった。エジプト遠征では、イギリス軍のために一時窮地にたったが脱出し、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)、シエイエス、カンバセレスなどと組んでクーデターを起こし、総裁政府を廃して統領政府を樹立、強力な中央集権体制を築いた。それとともに議会を三院制にして共和主義的批判勢力を封じ込め、ブルボン家の復位を図る王党派やジャコバン急進派を弾圧した。その一方で新旧の官職者を才能・経験重視の立場から統領制下の要職につけ、さらにフランス銀行の設立、政教協約の締結などによって国民諸階層の欲求を満たし、国内の安定をもたらすことになる。これをもってフランス革命は終息したとすることができよう。
[岡本 明]
フランス革命についての見方=革命像は、その後のフランスにおいて時代とともに変化する。まず、革命時からナポレオン1世時代まで(1789~1815)の注目すべき革命像は、保守派(反革命派)の主張にみられるもので、それは、革命をフランスの正しい歴史から逸脱した国際的陰謀とし、国王の処刑・恐怖政治などの非人道的行為に満ちた犯罪であるとして非難した。この保守派の反革命的見解に反対して革命を弁護し、後代の革命像の原型ともみられるものを提供したのが、復古王政時代(1815~1830)の自由派の革命像である。保守派貴族の支配する政府に対する批判として、自由派はフランス革命をフランスにおける自由の歴史の必然的帰結として位置づけて正当化し、「1791年憲法」にみる立憲君主制を革命の遺産として、その実現を要求した。チエールやミニェの各著作『フランス革命史』(前者のものは1823~1827年、後者は1824年刊)は、この自由派の革命像を示している。
1830年の七月革命によって成立した七月王政(1830~1848)は、この自由派革命像の理想の実現といえる。これに対し七月王政後半に反政府勢力として台頭した共和派は、フランス革命の「1793年憲法」の再現を理想として革命を神話化する。ロベスピエール、ジャコバン主義、平等、人民などが高く評価され、共和主義的革命像の実現を夢みた。ルイ・ブランやミシュレの各著作『フランス革命史』(前者のものは1847~1862年、後者は1847~1853年刊)はこの夢想に拍車をかけた。1848年の二月革命によって成立した第二共和政(1848~1852)によって、この共和派のフランス革命像は現実化したかにみえたが、歴史を半世紀戻すことはできず、共和政は短命に終わってふたたびナポレオン3世の独裁、すなわち第二帝政(1852~1870)へと移行する。
反政府運動のスローガンとしてのフランス革命像は、独裁下では活動できない。この時期には、あまりにも現実と密着した革命像への反省、革命像の脱神話化、革命から独裁への行程の考察など、革命そのものについての批判的考察への道が準備される。トックビルの『旧制度と革命』(1856年刊)はその一例である。
フランス革命が本格的な学問研究の対象となるのは第三共和政時代(1870~1940)、とくに革命100年記念を契機に、大学での講座、学会、機関誌などがつくられてからで、オーラールを中心に官製の革命像ができあがる。政治史中心のこの革命像に対して、19世紀末の社会主義運動の台頭を背景にジャン・ジョレスなどの社会経済史的革命像が現れる。この伝統はマチエによる階級闘争的革命像、ルフェーブルによる複数革命論へと発展し、革命像は多様化する。20世紀後半には、アナール学派の成立など歴史学全体の大きな変化とともに、革命の「心性史」「社会史」的考察も試みられ、革命像はふたたび大きな展開を示しつつある。
[前川貞次郎]
革命200周年記念(ビサントネール)行事を、日本は国際的、国内的にもっとも熱心に取り組んだ国としてあげられよう。国際学会の日本支部会といってよいシンポジウムでは、フランス革命がなんらかの衝撃を与えたものとしてロシア革命、中国辛亥(しんがい)革命、明治維新などの意義を問い直す機会にもなった。国内各学会も独自の取組みをし、そこでは、アメリカ独立革命をよく扱ったものと、ヨーロッパ18世紀から19世紀なかばの諸革命とフランス革命の関連を問うものが現れた。日本政治学会編『年報政治学――18世紀の革命と近代国家の形成』、『社会思想史研究14号――シンポジウム・フランス革命の思想的衝撃』はその一例である。『社会思想史研究』誌には、国際委員会が主催した大会参加記「フランス革命二百周年国際シンポジウムを振り返って」も掲載されている。
このときすでにみられた動向であるが、その後さらに確かな潮流として現れる心性史的把握が注目される。政治史や経済史をいったん離れ、フランス革命を、革命指導者の言説とそこに宿された心象、事件や祭典に参加した民衆の抱くイメージやジェスチュアによって解析しようとするリン・ハントLynn Hunt(1945― )のものが代表的である(『フランス革命の政治文化』)。ここでは1790年7月の連盟祭と1794年6月の最高存在の崇拝が比較対照される。前者では「法、国民、国王」という、垂れ幕に書かれたスローガンで区別を越えた相互の感情融和のうちにフランスの新しい出発を祝い、立憲聖職者が立ち会った。後者には、カトリックが関与する余地はなく、市民的徳がこれにかわり、大きな張りぼてが山岳派のこれまでの業績と、民衆の公共事への参加をたたえ、ロベスピエールの革命終結の意図を感じさせたが、同時に民衆の平和への渇望が見て取れると読み解かれる。
フランス革命のもっともフランス革命らしさはカトリック宗教の地位低下にあるとの前提にたち、これを「長期展望」と事件史的把握を交えて理解するのがミシェル・ボベルMichel Vovelle(1933―2018)である。啓蒙(けいもう)期において都市住民の宗教実践は衰え始めていたが、フランス革命は非キリスト教化によってこれに決定的な打撃を与えたとする。これでいうと、立憲聖職者と宣誓拒否僧侶への分裂も、それ自体が、革命前から生じていた聖職者任地の流動化や、かれらと農民信者の関係の複雑化によって生じており、分裂がまた、その後の非キリスト教化にも影響を与えている(ミシェル・ボベル著『フランス革命の心性』)。
バンデーの反乱解釈も、ブルジョアと農民の土地購入をめぐる争いだけでなく、ジャコバンによる都市民衆優遇策が中農民層に反感を抱かせ、その意味では革命中の政策が20世紀にいたる構造を規定しているとのエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリEmmanuel Le Roy Ladurie(1929―2023)の解釈もある(森山軍治郎(ぐんじろう)(1941―2016)著『ヴァンデ戦争』)。このような革命への反対者と同様、半独立少数集団としてのユダヤ人や、重商主義植民地の西インド諸島サン・ドマング島の独立運動を取り上げたものがでた。前者ではユダヤ人の運動の分析まではいかないが、グレゴワールHenri Grégoire(1750―1831)司祭の解放論や、ナポレオンによる処遇などが注目され、人権宣言の普遍的適用によって解放をみたとされたユダヤ人にも問題が残っていたことがわかる。後者ではサン・ドマング島の黒人奴隷の運動と、バルナーブやブリソ、ロベスピエールらの、奴隷解放への対応を異にする革命議会指導者の関係が明らかにされる(浜忠雄(はまただお)(1943― )著『ハイチ革命とフランス革命』)。さらに、革命とカトリックとの和解を告げる1801年コンコルダ(政教協約)の、交渉当事者の方針を軸にした研究もかなり深まりつつある。
女性運動の研究でも、1791年に発表された「女の人権宣言」の著者オランプ・グージュについての伝記的紹介が出ている(オリビエ・ブランOlivier Blanc(1951― )著『女の人権宣言』)。
これらのかたわら、正攻法的なフランス革命研究も着実に伸びており、モノグラフィーではあるがフランス革命とナポレオンを両にらみで進める研究も現れ始めた(遅塚忠躬(ちづかただみ)(1932―2010)著『フランス革命とヨーロッパ近代』、専修大学人文科学研究所編『フランス革命とナポレオン』)。
ただし、これらのなかには、国民公会やジャコバンの限界を一面的に指摘しかねないようなものもあるが、革命史研究には現実の焦燥感を反映したような熱っぽさだけでなく、冷静にとらえ返す作業も必要で、その点、山岳派、ロベスピエール、民衆運動指導者を真正面から見据えた研究(遅塚忠躬著『ロベスピエールとドリヴィエ――フランス革命の世界史的位置』)や、フランス革命をいきなり画期性として扱うかわりに、絶対王政末期とナポレオン時代の間に漬けてみればどうなるかを、主として官僚制の発展から考察した研究に立ち戻ることも求められる(岡本明(あきら)(1943― )著『ナポレオン体制への道』)。ナポレオン体制は、そこでは反動や反革命としてではなく、1789年人権宣言からは予測はされなかったが、その原理を引き取り、近代フランスを語るうえで重要なメリトクラシー原理=「才能の貴族制」を定立させようとしたものとして描かれている。
最後に、ゲニフェーPatrice Gueniffey(1955― )のジャコバン論は、言説の理解をもとに、単一のジャコバン主義ではなく、バルナーブ、ブリソ、ロベスピエールの「3世代のジャコバン」が存在したとの認識を示す。かれらの共通点は、中間者を省き代表者と民衆が意志伝達可能な関係にたつとの認識である。革命の競り上がり現象として恐怖政治に行き着くという考え方は、政治史を拒んではいないのだが、革命が新たな革命状況をつくり出すとの考えにたつ点で、政治文化史的な理解と共通するものがある(ゲニフェー著『恐怖政治――革命的暴力についての試論 1789~1794』)。
このほかにも、ハバーマスの市民的公共圏の考えでフランス革命をとらえ直すとどうなるかという課題がまだ残っている。フランス革命は全体として何であったのかを問うこの課題にとって、ゲニフェーの考えが示唆するものは小さくない。
[岡本 明]
『前川貞次郎著『フランス革命史研究――史学史的考察』(1956・創文社)』▽『桑原武夫編『フランス革命の研究』(1959・岩波書店)』▽『G・F・リューデ著、前川貞次郎・野口名隆・服部春彦訳『フランス革命と群衆』(1963・ミネルヴァ書房)』▽『G・ルフェーブル著、高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『1789年――フランス革命序論』(1975・岩波書店)』▽『遅塚忠躬著『ロベスピエールとドリヴィエ――フランス革命の世界史的位置』(1986・東京大学出版会)』▽『河野健二著『フランス革命200年』(1987・朝日新聞社)』▽『リン・ハント著、松浦義弘訳『フランス革命の政治文化』(1989・平凡社)』▽『日本政治学会編『年報政治学――18世紀の革命と近代国家の形成』(1990・岩波書店)』▽『『社会思想史研究14号――シンポジウム・フランス革命の思想的衝撃』(1990・北樹出版)』▽『ミシェル・ヴォヴェル著、立川孝一ほか訳『フランス革命の心性』(1992・岩波書店)』▽『岡本明著『ナポレオン体制への道』(1992・ミネルヴァ書房)』▽『オリヴィエ・ブラン著、辻村みよ子訳『女の人権宣言』(1995・岩波書店)』▽『遅塚忠躬著『フランス革命とヨーロッパ近代』(1996・同文館)』▽『森山軍治郎著『ヴァンデ戦争』(1996・筑摩書房)』▽『浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』(1998・北海道大学図書刊行会)』▽『専修大学人文科学研究所編『フランス革命とナポレオン』(1998・未来社)』▽『P・ゲニフェー著『恐怖政治――革命的暴力についての試論 1789~1794』(2000・Fayard、邦訳未刊)』▽『A・マチエ著、ねづまさし・市原豊太訳『フランス大革命』全3冊(岩波文庫)』▽『河野健二著『フランス革命小史』(岩波新書)』▽『J・M・トムソン著、樋口謹一訳『ロベスピエールとフランス革命』(岩波新書)』
18世紀末にフランスで生じた革命。1787年に王権に対する貴族の反抗で口火が切られ,89年から全社会層を巻き込む本格的な革命になり,絶対王政を倒して,立憲王政から共和政へとしだいに急進化したが,94年のテルミドールの反動ののち退潮に向かい,99年にナポレオンの政権掌握をもって終わる。単に政治上の変革であるにとどまらず,前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命であるので,世界史上,ブルジョア革命(市民革命)の代表的なものとされる。
革命前のフランスの体制は一般にアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれているが,それは,政治的には絶対王政が支配し,社会的には身分制と領主制とが存続しているような体制であった。絶対王政のもとでは,政治権力は国王とその官僚機構に集中され,国家を構成する市民(公民)の基本的人権や参政権は確立されていなかった。また,身分制としては,聖職者,貴族,平民(第三身分)の3者の区別が基本的であり,前2者は免税特権をはじめとする各種の特権を与えられていたが,聖職者の上層部はほとんど貴族の出身であったから,実際には貴族と平民との差別が最も重要であった。これら3身分の内部はさらにいくつもの階層に区分され,地方ごとの特権も存続していたから,国民的統一は実現されていなかった(身分制社会)。さらに,領主制というのは,領主がその所領を支配する中世以来の制度で,農民をはじめとして所領に属する領民は,領主に対して,年貢などの諸貢租を納めたり領主裁判権に服したりする義務を負っていた。領主がその所領で行使する領主的諸権利(諸貢租の徴収権や領内の経済規制権など)は,農業や商工業の自由な発展を著しく阻害するものであった。そして領主の多くは貴族身分に属していたから,貴族と平民との対立は領主と領民との対立に重ね合わせになっていた。
これに対して,18世紀の30年代からフランスの経済は好況に恵まれ,産業の発展に伴って,第三身分の中から,富裕な商工業者や大借地経営農民など,新しい資本主義的生産様式を担う市民階級(ブルジョアジー)が興隆してきた。彼らは,自分たちの権利を認めずに重税をかけてくる絶対王政や,身分的特権をもって自分たちを差別している貴族の支配や,自由な経済活動を阻害する領主制など,旧体制のいっさいに対して強い不満を抱き,その不合理を批判する啓蒙思想の影響を受けて,旧体制の打倒を目ざすようになった。フランス革命の基本的な原因は,こうしたブルジョアジーの旧体制に対する反抗にある。
しかし,旧体制に対してさらに強い不満を抱いていたのは,国民の大多数を占める農村の小農民や都市の民衆(小手工業者,職人など)であった。彼らは,領主の徴収する貢租と国王の徴収する租税との二重の負担に苦しみ,しだいに貧窮化しつつあったから,みずからの生活を守るためにも旧体制に対する反抗を強めつつあった。彼らは,旧体制に対立する限りでブルジョアジーと同盟しえたが,その他の点ではブルジョアジーとは異なる利害をもっていた。なぜなら,ブルジョアジーの推進する資本主義が発展するにつれて,民衆や農民はプロレタリアートに没落する危険にさらされていたからである。こうして,革命前夜のフランスでは,旧体制下の支配者としての貴族と,新興のブルジョアジーと,没落しつつある民衆や農民と,三つの社会層がそれぞれ独自の利害をもって三大陣営を構成しており,それらの対抗関係が革命の背景をなしていた。
なお,フランス革命の歴史的背景としては,以上のような国内の問題のほかに,国際的な関係をも考慮しなければならない。すなわち,18世紀初頭以来,世界市場をめぐる国際的争覇戦において,フランスはイギリスに対して決定的な劣位に立たされていた。とくに七年戦争以後,世界市場を独占したイギリスが産業革命を開始するようになると,フランスの経済的劣勢は顕著となり,1786年のイギリス・フランス通商条約によってイギリスの商品が大量に流入したことは,フランスの経済的危機をもたらした。このような状況のもとで,イギリスに対抗するためにも国内の近代化を図らなければならなくなったことが,フランス革命の重要な背景をなしているのである。
1774年にルイ16世が即位したころから,王国の財政はしだいに窮迫の度を強めていった。それは,単に宮廷費や行政上の費用のためばかりではなく,累積した公債の利子の支払いや,宮廷に寄生する貴族への年金の授与などにもよるのであり,さらに,アメリカ独立戦争への援助が財政の窮迫に拍車をかけた。A.R.J.チュルゴやJ.ネッケルによる改革の試みも功を奏さず,すでに平民への課税は限界に達していたので,財政を改善するためには,それまで免税とされてきた特権身分,とくに貴族に対しても課税することが不可避となり,国王の大臣たちは貴族への課税を含む財政改革案を作らざるをえなくなった。貴族はもちろんそれに反対であった。もともと貴族は,絶対王政のもとで特権身分として社会的には支配的な地位を占めてはいたが,政治的権力のほとんどすべてを王権に吸収されてしまっており,そのことに強い不満を抱いていた。そこで貴族は国王が窮地に立ったことを利用して,旧来の権力を取り戻そうと,王権に対する反抗を開始した。彼らは,王令を登録する権利をもっていた高等法院を拠点にして,あらゆる改革案に反対した。そのため財務総監C.A.deカロンヌは87年2月に名士会を召集して,貴族への課税を含む財政改革案への同意を求めたが,名士会はかえってカロンヌを罷免させた。こうして絶対王政は行き詰まり,王権は貴族の反抗によって麻痺してしまった。フランス革命は,貴族の反抗によって口火を切られたのである。
名士会がなんの効果もあげずに解散すると,財政改革案の審議は全国三部会にゆだねられるものとされ,175年間も開かれていなかった全国三部会が1789年に召集されることになった。しかし,その全国三部会の構成と議決の方式をめぐって,貴族と第三身分との対立があらわになった。すなわち,貴族は3身分がそれぞれ別個に会議を開くことを主張したが,第三身分は3身分の合同と頭数制の議決とを要求していた。89年5月に全国三部会が開かれると,初めから議決方式をめぐる紛糾が生じ,第三身分の議員たちはみずから〈国民議会〉と名のり,憲法の制定までは解散しないことを誓った(テニスコートの誓い)。その固い決意をみて,国王もやむなく聖職者と貴族に国民議会への合流を命じ,全国三部会は89年7月に〈憲法制定国民議会〉という名称をとることになった。しかし,国王を取り巻く宮廷と大多数の貴族は,第三身分との妥協をそのまま認めようとはせず,武力で第三身分を屈服させようとして軍隊を集結しつつあった。こうした貴族の動きを察知して,民衆や農民は貴族が議会と第三身分を武力攻撃しようとしているという〈貴族の陰謀〉の観念を抱くにいたった。その陰謀をくじくために,広範な民衆と農民が実力を行使して革命に介入することになった。
89年7月14日,パリの民衆は蜂起してバスティーユの牢獄を占領し,議会を守って旧体制に反対する意志を明らかにした。すでにこの年の春から各地で蜂起し始めていた農民も,このころ〈大恐怖〉と呼ばれる全国的なパニック現象を伴いながら,蜂起の火の手を広げて各地で領主の館を襲い,貴族や領主の支配を実力で粉砕する意志を示した。こうした状況を前にして,旧体制の維持が不可能であることを悟った〈自由主義的貴族〉は,第三身分と妥協して一定の改革を実施することを認めざるをえなくなった。その結果8月4日の夜に,議会は〈封建制度を廃棄する〉という決議を採択し,身分制と領主制を廃止して国民的統一と市民社会の実現を図ることを決定した。こうして民衆と農民の実力による介入を得て,旧体制を根本的に変革しようとする革命の方向が定まった。
同年8月26日,それまでに達成された革命の成果を要約してその諸原理を明示するために,議会は〈人権および市民権の宣言〉を採択した。この人権宣言は,人間の自由(思想,言論,信教の自由など),権利の平等,国民主権,所有権の絶対,などを明らかにしたものであり,旧体制が消滅したことを宣言するとともに,革命の理念を明示したものであった。しかし,この宣言によって示された諸原理をどのような形で具体化するかについては,二つの方式が可能であった。その一つは,ブルジョアジーの保守的な部分と自由主義的貴族とが同盟して,妥協的な形で革命を終結させようとする方式であり,もう一つはブルジョアジーの急進的な部分が民衆や農民と同盟して,革命を徹底的に推し進めようとする方式である。そして,89年の末から92年8月までの時期には前者の方式が実現され,妥協的な立憲王政が成立したのである。
国王ルイ16世は,8月4日の夜の決議や人権宣言を直ちに裁可しようとはしなかったが,10月に再びパリの民衆が蜂起してベルサイユ宮殿に押しかけ,国王と議会をパリに移転させたので,国王もやむなく8月の諸決定を裁可した。そこで議会は,89年末から新生フランスの諸制度,諸政策を次々に決定し,それらを総括して91年9月にフランス最初の憲法を制定した。この憲法で定められたフランスの政体は,一院制の議会をもつ立憲王政であったが,そこでは国民の参政権は非常に制限されており,一定額の直接国税を支払う者にしか選挙権が与えられず,被選挙権はさらに制限されていたから,貧しい民衆や農民を排除した有産者寡頭支配体制が樹立された。また,ギルドの廃止や囲込みの自由などをはじめとして,商品生産および流通の自由(経済的自由主義)が確立されたことは,ブルジョアジーの要求を実現するものであったが,貧しい民衆や農民にとっては自由競争の中でさらに没落する危険を増大させるものであった。また,農民の求めていた領主制の廃止は部分的にしか実現されず,年貢を免れるためには領主に多額の補償金を支払わねばならないことになった。そして財政を救うために,聖職者および教会の財産を国有化して売却することが決定され,その国有財産を担保にしてアシニャassignatという紙幣が発行されたが,それはやがてインフレーションを招いて民衆の生活を苦しめることになった。
そのころ,議会と宮廷との間はH.G.R.ミラボーなどの仲介で一応の安定を得ていたが,反革命派の貴族は続々と国外に亡命してオーストリアやプロイセンの援助のもとに革命の打倒を図り,国王の一家も,91年6月にひそかに国外へ逃亡しようとして国境近くのバレンヌで発覚してパリに送還され,それ以後,王家は国民の信用を失った。92年の春,こうした反革命派を支援するオーストリアなどとフランスとの間の緊張が高まり,4月に戦争が始まった。この戦争は立憲王政を崩壊させる契機になった。すなわち,国境の危機を救うために全国から義勇兵がパリに参集したが,その義勇兵とパリの民衆は,出陣に先立って国内の敵を一掃する必要を痛感し,同年8月10日,王宮を襲ってついに王政を廃止させるにいたったのである。
92年8月10日は,革命の路線を大きく変えるいわば第2の革命であった。単に王政が廃止されただけではなく,ブルジョアジーと自由主義的貴族との同盟によって革命を妥協的な形で終結させようとする方式そのものが破産し,内外の強力な反革命勢力を前にして,ブルジョアジーは,民衆や農民の力を借りざるをえず,それらとの同盟によって革命を徹底的に推し進めるほかはなくなったのである。同年9月,さきに91年の憲法によって成立していた議会(立法議会)は解散され,新たに普通選挙によって国民公会が召集され,9月22日をもって共和政が樹立された(第一共和政)。国民公会に代表されていたのは依然としてブルジョアジーであったが,その内部には,民衆や農民との同盟を拒否してブルジョアジーだけの利害を守ろうとする右翼のジロンド派と,革命遂行のためには民衆や農民との同盟が不可避であることを認める左翼の山岳派とがあり,後者は,パリに本部を置き全国に下部組織をもつジャコバン・クラブと密接につながっていた。
ジロンド派と山岳派との対立がしだいに激化するなかで迎えた1793年は,生まれたばかりのフランス共和国が内外両面にわたって深刻な危機にさらされた年であった。国内においては,インフレーションの進行や食糧の不足などによって民衆の不満が高まり,また,バンデーなど各地で王党派の扇動による反革命内乱が発生した。国外では,同年1月にルイ16世が処刑されたことによってオーストリアなどヨーロッパ諸国の国王たちが反フランスの態度を強め,また,フランス軍のベルギー地方への進出によって脅威を感じたイギリスもフランスに敵対し,やがて第1次対仏大同盟が結成されるにいたった。こういう危機に際して,ジロンド派はなんら有効な政治指導をなすことができず,民衆や農民の不満は高まるばかりであった。そこで同年5月末から6月初めにかけて,山岳派は民衆蜂起の力を借りて国民公会からジロンド派を追放した。こうして権力を握った山岳派は,大衆の革命的エネルギーを政治的リーダーシップのもとに結集して祖国の防衛と革命の遂行とを図ると同時に,国民公会に代表されているブルジョアジーの利害と議会外の民衆や農民の諸要求とをなんらかの方法で調整しなければならないという,まことに困難な課題を背負っていた。その課題を果たすための手段が,一方では強力な権力の集中による革命的独裁の樹立であり,他方では一定の社会政策の実施による民生の安定であった。
まず山岳派は,〈社会の目的は公共の福祉にあり〉という原則を掲げた新憲法(普通選挙を含む)を制定したが,内外の非常事態を前にしてこの憲法の実施を延期し,憲法によらない非常政治体制としての〈革命政府〉を樹立した。この体制は立法権と行政権とを分立させず,立法府たる国民公会のなかのいくつかの委員会,とくに公安委員会に強力な行政的な権限をも集中して敏速な政治指導を行おうとする一種の独裁体制であって,公安委員会において最も指導的な役割を果たしたのが,パリのジャコバン・クラブを背景とするロベスピエールであった。この独裁体制は,旧体制を徹底的に一掃するとともに内外の反革命勢力の攻撃から革命を擁護するための非常手段であるという意味で,革命的独裁と呼ばれうる。しかし,そういう独裁的な政治指導は,民衆運動の自律性を認めず,民衆のエネルギーをすべて公安委員会の統制のもとに置こうとするものであったから,民衆運動としだいに対立するようになった。つまり民衆は,人民主権の原理を徹底させて民衆の要求を直接に議会に反映させようという直接民主主義を目ざしていたから,山岳派の独裁的政治指導を逸脱する傾向をもっていたのである。したがって山岳派独裁は,いわゆる恐怖政治によって王党をはじめとする反革命派を容赦なく処刑しただけではなく,民衆運動を背景とした〈過激派(アンラジェ)〉やエベール派などの最左翼をも弾圧することになった。
93年から94年にかけて,民衆や農民は領主制の完全な廃止をはじめとする旧体制の一掃を求めるにとどまらず,資本主義の発展によって自分たちが無産者に没落していくのを阻止しようとして,経済活動の無制限な自由や富の不平等を攻撃し,私的所有の制限や土地の分割をも要求するにいたった。そこで山岳派は,93年7月に領主制を完全に無償で廃止したが,民衆や農民の反資本主義的な要求を認めることはできず,これとブルジョアジーの利害とを調整するために,臨時の措置として一連の社会政策を実施した。すなわち,山岳派は生活必需品の〈最高価格制〉,物資の買占めの禁止,食糧の強制的出荷命令(徴発)など経済統制を実施して民生の安定を図り,さらに94年春,ロベスピエール派は反革命容疑者の財産を没収して貧しい愛国者に分配するという〈バントーズ法〉さえをも提示した。しかし,こうした社会政策はブルジョアジーの離反を招き,山岳派内部にも分裂をもたらした。つまり右翼のダントン派は,社会政策に反対するとともに恐怖政治の緩和を求め,左翼のエベール派は社会政策の徹底と恐怖政治の強化を求めた。そこでロベスピエールは,94年春にエベール派とダントン派とを相次いで処刑したが,その結果はロベスピエール派の支持基盤を狭めるだけであった。おりしも,国内の反革命内乱はほとんど鎮定され,国境の軍事的危機も共和国軍の勝利によって薄れつつあったから,独裁的非常体制や恐怖政治の必要性そのものが解消した。こうしてブルジョアジーの利害を代表する議員たちは,94年7月27日国民公会においてテルミドールの反動と呼ばれるクーデタを成功させ,ロベスピエールはその一党とともに翌日処刑された。
テルミドールの反動とともに,革命の流れは大きく変わった。それまで革命を推進してきたのはブルジョアジーと民衆や農民との同盟関係であったが,ブルジョアジーは,この同盟を維持しようと努力してきたロベスピエールを倒すことによって,民衆や農民との同盟関係を解消し,みずからの階級的利害を貫徹して,〈持てる者によって統治される国〉を実現しようとした。経済統制は直ちに廃止され,国民公会の左翼議員は追放され,ジャコバン・クラブは閉鎖され,復活した右翼によって報復的な〈白色テロル〉が荒れ狂った。95年8月に制定された新憲法では,普通選挙制も廃止されて,二院制の議会と5人の総裁から成る総裁政府が樹立された。しかし,この総裁政府は左右両翼からの脅威にさらされていた。すなわち,96年には,民衆運動の思想を一種の共産主義にまで高めて〈財産と労働とをともにする共同体〉を実現しようとするバブーフの陰謀が発覚し,その翌年には,王党が勢力を増大して政府を脅かすまでになった。これら左右両翼からの脅威を前にして,権力の座に就いたばかりのブルジョアジーは,みずからの財産を守りブルジョア的な秩序を維持するためには,ただ,軍隊とその指導者の力に頼るほかはなかった。こうして,おりしもイタリア遠征で輝かしい勝利を収めたナポレオン・ボナパルトが登場する。ブルジョアジーだけではなく,革命によって解放されるとともに保守化した広範な小土地所有農民もまた彼を支持し,戦勝によるナショナリズムの高揚がこの国民的英雄を権力へと導く。総裁政府の動揺と第2次対仏大同盟の結成を知って遠征中のエジプトから帰国したナポレオンは,99年11月9日(ブリュメール18日)にクーデタを断行した。ここに国家権力は彼の軍事的独裁にゆだねられ,フランス革命はその幕を閉じた。
フランス革命は市民の基本的人権を確認するとともに,資本主義に適合した社会を生み出したから,市民革命ないしブルジョア革命の代表的なものとされるが,同時にそれは,広範な民衆や農民の参加のもとに遂行されたから,国民の平等な政治参加への道を開く民主主義革命の一つと呼ばれるに値する。そして革命の原理を明示した人権宣言が,フランス人の権利の宣言であるにとどまらず,普遍的な人間の権利の宣言であったことにも示されているように,フランス革命は国境を超えた普遍性をもち,世界的に大きな影響を及ぼした。その主要な成果がナポレオンによって継承されて,直接にヨーロッパ大陸に広められただけではなく,19世紀の自由主義と国民主義の運動や,1848年に至るヨーロッパの諸革命は,フランス革命を継承し完成させようとするものであったといえよう。日本においても,1890年(明治23)に作成された最初の民法草案(旧民法)は,フランス革命の成果を継承したフランス民法典(ナポレオン法典)を模範とするものであったが,それゆえにこの旧民法は施行されずに終わった。しかし,フランス革命の原理は,中江兆民らによって伝えられ,自由民権運動にかなりの影響を及ぼしたのである。
執筆者:遅塚 忠躬
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1789~99年にわたるフランスの市民革命。アンシャン・レジーム末期,フランスは経済的に急激な発展をとげたにもかかわらず,ブルジョワと国民大衆は第三身分として政治的権利を認められず,身分制度や封建的諸関係は近代的発展をさまたげていた。絶対主義政府が財政整理について名士会を召集すると,自由主義貴族は三部会開催を要求したため,89年5月,三部会がヴェルサイユで開催された。第三身分議員は特権議員と対立したが,6月,他部会議員参加のもとに国民議会の成立を宣言し,7月には憲法制定議会となった。バスティーユ事件,農民の運動などの影響のもとに,8月,封建制廃止宣言,人権宣言が行われ,立憲君主制を規定する,91年憲法が制定された。91年10月,立法議会が開会されると,フイヤン派,ジロンド派が指導し,92年4月,オーストリアに宣戦したが,戦局の不利と経済危機にいらだつパリ市民は同年8月,国王をテュイルリ宮殿に襲って捕え,王権を倒した。同年9月,国民公会は共和政を宣言し,93年1月,ルイ16世を処刑した。議会ではパリのサン・キュロットと結ぶ山岳派とジロンド派の対立が続いたが,5~6月,山岳派は後者を追放して独裁権を握り,公安委員会,革命裁判所などの革命的機関によって恐怖政治をしき,革命政府を樹立し,経済統制をはじめ社会的立法を行った。しかしテルミドール9日のクーデタ後,革命政府は解体され,95年,総裁政府が樹立されたが,なお左右勢力の対立のなかに政治的安定を得ることができず,バブーフの陰謀も行われた。ここに対外的防衛,ブルジョワ的安定を図るために強力政府の出現が希望され,ナポレオンがブリュメール18日のクーデタによって独裁政治を開いた。
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…また,階級間関係は定義によって相互に不平等な関係であることから,他階級に対する敵対感情,自階級内部での連帯感情をともなうことが多く,これが階級意識と呼ばれるものである。
[サン・シモンの階級論]
階級論への着目は,西ヨーロッパ諸国における近代化革命,とりわけフランス革命をつうじて形成され,初めにサン・シモン,次いでマルクスとエンゲルスによって一つの理論へと定式化されるにいたった。 最初の定式化を示したサン・シモンは,その著《産業者教理問答Catéchisme politique des industriels》(1823‐24)の中で,フランス革命以前のアンシャン・レジームの下では,フランスは貴族・ブルジョア・産業者の3階級から成っていたとし,貴族を支配する階級,産業者を服従する階級,そしてブルジョアを中間階級とした。…
…独立宣言に先立つバージニア権利章典(1776)以来,すべての人は生来ひとしく自由かつ独立であることが強調され,公立・無償の学校への道が開かれた。ついでフランス革命期には,ジロンド派憲法草案(1793)で〈初等教育は,すべての者の需要であり,社会は,すべての構成員に対し,平等にこれを引き受けるものである〉とされ,同年のモンタニャール派(山岳派)憲法でも,教育はすべての者の需要であるとしたうえで,〈社会は,その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し,教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない〉とされていた。ジロンド派に属し革命後の教育計画をたてようとしたコンドルセは,教育の自律性確保のため,教育を宗教的権威から独立させると同時に行政的権力からも独立させようと試み,教育行政権を学者・知識人の互選による国立学術院にゆだねるとの構想をたてた。…
…そのような一般的な意味では,テロリズムともいう。だが,歴史的には,フランス革命期の1793年から94年にかけて行われた革命的独裁政治が,断頭台などによる大量処刑を伴ったために恐怖政治と呼ばれており,狭義の恐怖政治は,この時期のフランスの政治形態を指す。 フランス革命期の恐怖政治は,革命の敵と見なされた者に対する民衆の自然発生的な殺害や暴行に端を発し,1793年秋からは,革命政府の手で反革命派ないし政府反対派に対する広範で組織的な投獄・処刑が強行されるにいたったが,そのような事態が生じた背景には,外国軍の侵入と国内の反革命内乱の発生という深刻な危機的状況があった。…
…しかし,イギリスでのこの概念の展開は,比較的に無意識的,漸進的であった。 それを意識的,急進的に樹立したのは,フランス革命であった。そこでは,〈国民(ナシオンnation)主権〉の原理からこのような概念が体系的に展開されていた。…
…
[歴史]
ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。…
…革命の途中で,レベラーズは,農民の土地保有権強化,没収地の細分売却,共有地の平等分割の方針((2)(3)(4)と逆)を提起し,また,ディガーズは貧民による荒地の共同耕作を試みたが,いずれもクロムウェルの勢力によって抑圧された。
[フランス革命の土地改革]
イギリス資本主義は,18世紀中葉に国際的覇権争いでフランスを劣勢に追い込むまでに発展し,この危機のなかでフランス革命が起こる。ここでは16世紀以降商人の〈市民的土地所有〉が発生し,その零細小作への貸付けによって領主制とは異質の〈寄生地主制〉も展開していた。…
…反動とは,物理学的には作用に対する反作用という意味であるが,政治の世界で反動の概念が生まれたのは,フランス革命をもって嚆矢(こうし)とする。自由・平等・博愛という普遍的価値を前面に出して遂行されたこのイデオロギー革命は,その進展とともに革命に反対する運動を呼び,これが反動派réactionnairesを形成することになった。…
…
【地域性】
[プロバンスとレジヨン]
フランスは,さまざまな見方によって諸地域に分けられる。現在最も広く用いられている地方名は,フランス革命以後に設定された95の県(デパルトマンdépartement)名ではなく,むしろそれ以前の旧州(プロバンスprovince)またはそれを援用した22の〈地域〉(レジヨンrégionと呼び,数県をまとめたもの)の名前である。たとえば,ブルターニュは,旧州にあたる5県を指す場合と〈地域〉を構成する4県のみを意味する場合とがある。…
※「フランス革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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