改訂新版 世界大百科事典 「画家組合」の意味・わかりやすい解説
画家組合 (がかくみあい)
西洋中世において,他の同業組合(ギルド)と同じく,各都市の画家の相互規制と相互扶助,ならびに外来の競争者の排除を目的としてつくられた組織。組合員は会費を納める親方画家のみで構成され,画家志望者は親方の工房で一定期間の修業を積み,組合に親方資格作品masterpiece,Meisterstückを提出して,初めて画家としての活動を認められた(徒弟制度)。外来の画家を含めこの過程を経ていない非組合員の制作活動,および外部で制作された作品の販売は規約により禁止され,修業年数や,同一時期に1人の親方が擁し得る弟子の数も,都市により多少の差はあるものの組合の規約で定められていた。組合はまた,使用される材料の質を規定するなど作品の品質管理をも業務の一つとしていた。
画家組合の形成自体,今日とは異なり,絵画制作を職人の手工芸の一つとみなす伝統的立場を前提としているが,画家組合が当初鞍作りなど他の同業組合の一部をなすことが多かったのもこの事情を反映している。また,フィレンツェでは画家は14世紀前半に医師および薬剤師の組合に加入を認められたが,これは顔料と薬剤の関連によるものと考えられる。画家が医師と同じくルカを守護聖人としていることも画家がこの組合に編入された理由であり,やがて各地で独立の組合をもつようになっても画家組合は聖ルカ組合を名のることが多かった。特に15,16世紀のネーデルラントでは,画家組合の礼拝堂の祭壇画として〈聖母を描くルカ〉の主題が愛好されている。
画家組合は各都市の繁栄の中で,親方画家に独立し安定した活動の場を保証し,作品の質を一定水準に保つ上で有効な組織であったが,イタリアでは15世紀末ごろから絵画,彫刻がいわゆる〈芸術〉として単なる手工芸から区別されるようになり,抜けがけを防ぐことを目的とした組合の規約や実践中心の修業法への不満が台頭してくる。かくして16世紀に自由で理論的な芸術探求のための集りとしてのアカデミーが発達し,従来の組合も併存したものの,アカデミーに従属してその拘束力は弱まっていった。これに対しネーデルラントでは16,17世紀にも依然中世以来の画家組合(彫刻家,ガラス絵師,画商なども含むことが多い)が実質的に機能していたが,17世紀後半にはイタリアやフランスの先例にならって各地にアカデミーが誕生している。なお,自由な芸術家の集りとしてのアカデミーが組合の統制に対抗し得たのは王侯の保護を仰いだためであるが,中世以来個人として宮廷に仕えた,いわゆる宮廷画家も組合のさまざまな拘束を免除される特権を得ていた。
→絵師 →絵所
執筆者:高橋 裕子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報