日本大百科全書(ニッポニカ) 「サロン」の意味・わかりやすい解説
サロン(文化)
さろん
salon
本来は、客間を意味するフランス語で、イタリアのサローネsaloneから転化したもの。歴史的には、サロンとは、貴族やブルジョアの夫人が日を定めて客間を開放し、同好の人々を招き、文学・芸術・学問その他の文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習をいう。
[福井芳男]
文学
17世紀フランスで確立された、一つのタイプをもつ文学で、風習、文体などにさまざまの影響を与えた。
ランブイエ夫人のサロンが非常に成功したのにつれて、17世紀中葉から後半にかけて、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人たちがそこに出入りした。このサロンの流行が、ことば、風俗の洗練に尽くした功績は大きかった。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなった。しかも、サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学がここで発達することとなったのである。たとえば、サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換する。あるいは古い詩形であるロンドーを復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。こういった流行のほかにも、書簡、短くて軽い詩などに独特の軽妙さ、軽い皮肉、優雅さが盛り込まれる文学作品が支配的になった。ボアチュールがその代表的作家とみなされるが、このほかにもサラザンJean-François Sarasin(1615―54)、バンスラードIsaac de Benserade(1613?―91)などが名高かった。
サロンの主人は女性であるゆえ、女主人やそこに集まる女性たちをたたえる恋愛詩が多いのは当然であるが、それも熱烈な、誠心を告げるといったたぐいのものではなく、気の利いた軽い詩句でなければならなかった。まじめなようで、しかも浮気な恋愛詩が好まれたのである。これが、中世以来受け継がれた恋愛詩、理想の女性にあこがれ、ただひたすら女性をたたえ、仕えるという恋愛詩の伝統から、フランスの詩を解放するのに大いに役だった。またサロンの人々に容易にわかることばを用いる必要から、衒学(げんがく)趣味を排し、新奇な表現を拒み、あまりにも奇異な隠喩(いんゆ)を捨て、わかりやすい優雅なフランス語をつくることに大いに貢献したといえる。ただ、狭いサークルでの会話、文章といった性格上、用語を洗練させたあまり、独特なことば遣いを流行させ(とくにスキュデリ嬢の周辺)、プレシューprecieux(気どった)とよばれる風潮をつくった。その反面、文学に扱う題材が、サロンでの小さな事件、前記の恋愛遊戯に限られて、政治、宗教あるいは深刻な哲学的問題などが排除されてしまったため、文学の次元が著しく狭くなってしまったことは否めない。しかしこのサロンで心理分析が進歩し、人間の行動を支える心理的メカニズムの解明が進んで、いわゆるモラリスト文学が発生したことは特記する必要があろう。ラ・ロシュフコーの『箴言(しんげん)集』はサブレ夫人Madame de Sablé(1599―1678)のサロンでできたもので、後のラ・ブリュイエール、ボーブナルグ、シャンフォールら著名なモラリストたちの作品はみなサロンで発表され、論じられ、サロン文学の一種といえよう。
また17世紀末からサロンの女性たちの関心が科学的な問題に向かったので、フォントネルらがやさしく科学的諸問題の解説を行い、それが近代科学の浸透に役だち、18世紀のデファン夫人、タンサン夫人marquise de Tencin(1682―1749)らのサロンで啓蒙(けいもう)思想の諸作品が生まれたこと、ロマン派文学の胎動がスタール夫人、レカミエ夫人のサロンでつくられたことなどを考えると、狭い意味でのサロン文学の枠を越えて、フランス文学・思想の潮流のなかで演じたサロンの役割は大きかったのである。
[福井芳男]
美術
美術用語としてのサロンは、公募展、官展の意味で用いられる。17世紀、ルイ14世時代、王立美術アカデミーの設置を契機として開催されることとなったいわゆるル・サロン(官展)がその最初で、展覧会場としてルーブル宮の「サロン・カレ(方形の間)」があてられたためにこの名が一般化した。この展覧会は1667年第1回展を開催し、1675年まで隔年ごとに開催され、その後1699年、1704年の開催後は1725年まで中断する。その後、比較的頻繁に開催され、1737~48年は例年、48~91年は隔年展となっている。出品者はアカデミー会員および招待者に限られていたようであるが、18世紀にはしだいに出品数は増加して数百点を数え、訪問者も増加し、美術の批評と大衆化という両面で重要な役割を果たした。フランス革命後、出品は自由化され、そのかわりに審査制度が設けられた。しかし、その後の出品者の増加、審査に対する不満から、1863年には「落選展」Salon des Refusésが開かれ、1881年には政府およびアカデミーから独立したフランス国民美術協会による「サロン・ナショナル」が生まれる。さらに完全な出品の自由、審査の撤廃を趣旨とする「アンデパンダン展」Salon des Indépendantsが設立される。20世紀には「サロン・ドートンヌ」「サロン・ド・メ」など、そのほか多くのサロンが生まれた。
サロンは本来官展として生まれたため、本質的に保守的、アカデミックであり、しばしばそれが在野の画派やそれを支持する批評との間に摩擦を生み、しばしば新しい優れた画家を無視する結果となったが、芸術家たちの熾烈(しれつ)な競合の場としても、多くの大衆への展示といった点でも、近代美術史のうえに果たした役割はきわめて大きい。さらに、次々に成立したサロンはそれぞれ特徴をもち、たとえばアンデパンダン展はスーラやアンリ・ルソーを、サロン・ドートンヌはフォーブの画家たちを、1939年創設の「サロン・デ・レアレリテ・ヌーベル」Salon des Réalités Nouvellesは非具象の画家たちを送り出すなど、それぞれの時代の新たな傾向を世に問う役割をも担った。
[中山公男]
サロン(打楽器)
さろん
saron
インドネシア、ジャワの旋律打楽器。装飾を施した木製の共鳴台の上に金属製(多くは青銅)の分厚い板を6~8枚、木琴状に並べたもの。木または角(つの)製の槌(つち)でたたき、打奏後、一方の手で板を押さえ消音しながら奏する。ガムランとよばれる打楽器を中心とした合奏のなかで、大小2~4種(音域の低い順に、サロン・ドゥムン、サロン・バルン、サロン・パヌルスなどとよぶ)が、それぞれスレンドロ音列用、ペロ音列用に調律され、2台1組(計4~8台)で使われ、主要旋律およびその分割装飾を受け持つ。調律には、板の裏面の両端または中央を削る。
[川口明子]
サロン(腰衣)
さろん
sarong
マレー半島からインドネシア諸島にかけて広く着用されている腰衣の一種。サロンはマレー語で「筒鞘(つつざや)」を意味する。普通、幅1メートル、長さ3メートルから4メートルほどの多彩な1枚の布で、脇(わき)にしわを寄せ、スカート風にウエストに巻き付けて用いる。地方によっては、筒形に縫い合わせたものを着用することもある。用布には、多彩な文様が織り出されたり染め出されたりした上質綿布、絹布が使われる。インドネシアではバティック(ジャワ更紗(さらさ))のサロンが特徴的。丈は腰で調節されるが、膝(ひざ)からくるぶしまでの間の長さが普通である。男女ともに用いられる。
[深井晃子]