江戸中期の儒者。寛延(かんえん)3年10月20日生まれ。佐賀藩の人。穀堂(こくどう)の父。名は樸(ぼく)、字(あざな)は淳風(じゅんぷう)、別号は復原。京都に遊学して福井敬斎(ふくいけいさい)(?―1801)、西依成斎(にしよりせいさい)(1702―1797)に入門、また大坂で尾藤二洲(びとうじしゅう)、頼春水(らいしゅんすい)と親交、朱子学を尊崇するようになった。帰郷後、藩政に参与し、藩校(弘道館(こうどうかん))の創設とその教授にもあたった。1791年(寛政3)藩侯に従って江戸に出、藩臣として初めて昌平黌(しょうへいこう)で経学を講じ、さらに幕府の儒官として林祭酒(はやしさいしゅ)、柴野栗山(しばのりつざん)、尾藤二洲らと学政を振興し、栗山、二洲とともに「寛政の三博士」と称された。1811年(文化8)には祭酒とともに対馬(つしま)で朝鮮の通信使に応接した。
精里は、異学の禁を継ぐ儒官であったが、闇斎(あんさい)学の固陋(ころう)な朱子学は嫌い、その学は博洽(はっこう)、詩文も軽視しなかった。能書でもあった。しかし単に文人儒生ではなく修己治人を旨として行政、教育にも手腕があった。文化(ぶんか)14年5月4日68歳で没した。『精里集抄』(精里文集)全3集10巻(1819)ほかがある。
[黒住 真 2016年5月19日]
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江戸中期の儒学者。名は樸,字は淳風,弥助と称す。精里は号。本姓は劉氏。佐賀藩士の家に生まれ,はじめ陽明学を学び京坂に遊学して朱子学に転ず。帰国後藩政に参与し藩校弘道館の教授となる。1796年(寛政8)幕府の儒者に抜擢されて学政の振興につとめ,柴野栗山,尾藤二洲とともに〈寛政三博士〉と称された。著作に《四書集釈》《大学纂釈》,施政の要を論じた《十事解》などがある。
執筆者:頼 祺一
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1750.10.20~1817.5.3
江戸後期の朱子学派の儒者。名は樸(すなお),字は淳風,通称弥助。肥前国佐賀藩士の子。はじめ陽明学を好んだが,京都で西依成斎らに学び,大坂で尾藤二洲(じしゅう)・頼(らい)春水と交わって朱子学に転じた。佐賀に帰国後,藩校弘道館の教授となり,朱子学によって藩学を整備した。1796年(寛政8)幕府儒官に任じられ,寛政の三博士の1人として,異学の禁以後の学政と「孝義録」編纂に努めた。著書「精里文集」「四書集釈」。
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