改訂新版 世界大百科事典 「羽倉外記」の意味・わかりやすい解説
羽倉外記 (はぐらげき)
生没年:1790-1862(寛政2-文久2)
江戸後期の幕臣。名は用九。簡堂,天則,可也などと号し,外記は通称。大坂で生まれ,古賀精里の門人となって儒学を学び,尚歯会のメンバーとして渡辺崋山らの洋学者と交流する。父秘救の跡を継ぎ,関東,東海の代官を歴任し,天保改革期に登用されて,1842年(天保13)には納戸頭,勘定吟味役にのぼる。この間,1838年にはイギリスによる小笠原諸島占領のうわさにより,幕命をうけて伊豆諸島,小笠原諸島方面の巡視に赴く。43年には大坂などの町人に100万両の御用金を課するため上方にのぼり,あわせて吉野金山の開発を図った。水野忠邦の失脚とともに罷免され,小普請入,逼塞(ひつそく)を命じられた。その後の対外関係の緊張により49年(嘉永2)には《海防私策》を著し,海防問題に関心を寄せた。おもな著作に,《簡堂遺文》《簡堂叢書》《南汎録》《駿府志略》などがある。
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報