耆英(読み)きえい(その他表記)Qi-ying; Ch`i-ying

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「耆英」の意味・わかりやすい解説

耆英
きえい
Qi-ying; Ch`i-ying

[生]乾隆52(1787)
[没]咸豊8(1858)
中国,清末の政治家。宗室 (皇族の意) 出身で,満州正藍旗の人。字は介春。嘉慶 11 (1806) 年宗人府主事となり,以後,理藩院侍郎,礼部尚書,戸部尚書,熱河都統など歴任し,道光 18 (38) 年盛京将軍となってアヘン取締りや満州の海防に活躍。同 22年広州将軍,欽差大臣として広東におもむき,全権として南京条約に調印した。次いで両江総督,両広総督を歴任し,虎門寨追加条約望厦条約黄埔条約締結。同 28年文淵閣大学士となる。のち軟弱外交を非難され,咸豊8 (58) 年の天津条約締結の際にはイギリス人から広東での背信を責められ,罪に問われて自殺した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「耆英」の意味・わかりやすい解説

耆英
きえい
(1787―1858)

中国、清(しん)朝の皇族出身の政治家。満州正藍旗人(せいらんきじん)。字(あざな)は介春(かいしゅん)。アヘン戦争に際し欽差(きんさ)大臣として浙江(せっこう)の防衛にあたった。敗戦が続くなかで対イギリス懐柔政策に転じ、中国側を代表して南京(ナンキン)条約を結んだ。戦後も引き続いて両広総督などの要職にあって諸外国との折衝にあたった。1858年、天津(てんしん)条約締結のとき、対外事務に通暁しているとの理由でふたたび起用されたが、その後、清朝政府が対外強硬策をとるに至ったため、親英論者として自殺を命じられた。

[倉橋正直]

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普及版 字通 「耆英」の読み・字形・画数・意味

【耆英】きえい

老人賢者

字通「耆」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の耆英の言及

【アヘン戦争】より

…かくして,奕山が指揮した先の広州戦役に続き,奕経による浙江戦役も大部隊を集めながら敗北した。道光帝は和議に転じ,盛京将軍耆英(1790‐1858)と両江総督伊里布(1772‐1843)を講和交渉のために浙江に急派した。しかしポティンジャーは和議を拒否し,5月に寧波,鎮海を撤退して舟山を基地とし,乍浦(さほ)を攻略して長江(揚子江)への進攻を開始した。…

【南京条約】より

…江寧条約ともいう。1842年8月29日(道光22年7月24日)英艦コーンウォリス号において,清国全権耆英(きえい),伊里布とイギリス全権ポティンジャーH.Pottingerとの間に南京条約全13条が締結された。ここにアヘン戦争は終りを告げ,同条約は翌年6月に香港で批准された。…

※「耆英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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