アヘン戦争(読み)あへんせんそう

共同通信ニュース用語解説 「アヘン戦争」の解説

アヘン戦争

大英帝国が1840年、清に仕掛けた侵略戦争。英側は植民地インドアヘンを栽培し、中国に輸出していたが、清が輸入を禁じたため戦端を開き、42年に勝利した。清は①香港割譲②上海など5港の開港賠償金支払い―などを定めた南京条約受諾。300年近く続いた清はこれを機に衰退し、1911年からの辛亥革命を経て12年に滅んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アヘン戦争」の意味・わかりやすい解説

アヘン戦争
あへんせんそう

1840~1842年、イギリスと中国(清(しん))との間に行われた戦争。中国の半植民地化の起点となった。

原因

18世紀後半以来、産業革命を進めていたイギリスは、広州(こうしゅう/コワンチョウ)1港に限定して行われていた中国貿易に対しても、積極的に市場の拡大を図り始めた。そのため、開港場の増加、公行(コーホン)(広東(カントン)十三行)とよばれる清の官許の商人による外国貿易独占体制の打破を目ざし、1793年使節マカートニーを派遣して交渉させたのをはじめ、アマースト(1816)、ネーピア(1834)などを送ってその実現を図ったが、拒絶された。その間、初め毛織物、のち綿紡織品、金属などの工業製品の輸出拡大を図ったが売れ行きは伸びなかった。他方、イギリス国内の新興工業都市で飲茶(紅茶)の風習が広がったため、中国茶(紅茶)の輸入が激増し、在来の生糸、陶磁器輸入と相まって、こと中国貿易に関する限り、圧倒的にイギリスの入超で、多額の銀を中国へ輸出しなければならなかった。1834年まで中国貿易独占権を賦与されていたイギリス東インド会社は、本国政府から統治権を与えられていたイギリス領インドにおいて、18世紀末アヘンの植え付け、精製の専売制度を実行し、これを冒険的な民間のイギリス商人に売り渡して中国に密輸させた。1776年以前には毎年200箱(1箱の重さ約60キログラム)程度のインド産アヘンが医薬品として中国に輸出されていただけであったのが、1800年には2000箱、1830年になると約2万箱、東インド会社の中国貿易独占権が廃止されて以後の1837年には、アメリカ商人による密輸を含めて3万9000箱ものアヘンが中国に輸出され、200万人を超えるアヘン吸飲者がつくりだされた。清朝は1796年最初の禁令を発布して以来、再三アヘン輸入禁止令を発したが、腐敗しきった官僚機構に阻まれて無効に終わった。このアヘン貿易は、イギリス領インド政府に莫大(ばくだい)なアヘン税収入をもたらし、それはイギリスのインド支配にとって不可欠のものとなっていった。またインドにおけるアヘン収入が、イギリスのインドに対する綿製品輸出の拡大を可能にした。さらに東インド会社、のちに民間商人はアヘンによって茶の買付け資金を獲得でき、そのため中国茶の輸入が増加し、それがイギリス本国政府に莫大な茶税収入をもたらした。こうして中国へのアヘン密輸は、当時のイギリス資本主義にとって死活の重要性をもつに至ったのである。

 一方、中国では、1820年代以降、多額の銀が国外に流出し(1821年から40年間に最低でも1億ドルに達した)、そのため銀価が騰貴して、財政、経済に破壊的な影響を及ぼした。当時、中国で通用していた貨幣は銀と銅で、18世紀末には銅銭700~800文で銀1両に交換できたが、1830年代には1600~1700文が必要になった。日常、銅銭を使用しながら、銀に換算して納税しなければならなかった農民や手工業者にとっては、実質的に税負担が増大し、収税は困難になり、国庫の蓄えは日増しに減少していった。加えて軍隊内でのアヘン中毒の広がりが支配層の危機感を高めた。1838年、道光帝はこれらの危機的状況を鋭く指摘して、アヘンの厳禁を主張した湖広総督(湖南(こなん/フーナン)、湖北(こほく/フーペイ)両省を統轄する地方長官)林則徐(りんそくじょ)を、欽差(きんさ)大臣(特命全権大臣)として広州に派遣し、アヘン密輸を厳禁する役目にあたらせることにした。1839年春、広州に到着した林は、貿易停止、武力による商館包囲など強硬手段をもって、イギリス商人から2万余箱のアヘンを没収、焼却した。当時イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対していた。だが、大アヘン商人ジャーディン・マセソン商会をはじめ、インドと中国の貿易にかかわる貿易資本は、没収アヘンの賠償と、この問題を機に「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るよう、強力にパーマストン外相に働きかけた。1840年4月イギリス議会は、9票差で「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」(グラッドストーン)中国への遠征軍派遣を承認した。

[小島晋治]

経過

1840年夏、48隻の艦船、4000人の兵員からなるイギリス艦隊が北上して大沽(タークー)、天津(てんしん/ティエンチン)を脅かすや、清朝はいったん休戦を命じ、徹底抗戦派の林則徐を罷免し、妥協派の琦善(きぜん)を全権として広州で講和交渉を行わせた。しかし和平草案はイギリス政府にも清朝にも受け入れられず、戦争が再開された。コレラの蔓延(まんえん)に苦しんだイギリス軍は、1841年インドから約1万余の兵を派遣して揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン)に侵入、南京(ナンキン)に迫った。一部を除いて清軍は腐敗、無能をさらけ出し、しかも林則徐が広東で試みようとしたように、ヨーロッパ諸国から近代兵器を購入することも、地方の有力者の指導下に農民、漁民などを武装させて抵抗することも禁止した。そして南京の失陥によって清朝の権威がさらに揺らぐことを恐れ、その直前にイギリスの全要求を受諾して南京条約を結んだ(1842年8月)。この間、広州郊外の三元里で、イギリス軍の暴行に憤激した数万の村民が自発的に反英武装抵抗を起こす動きもみられ、近代中国の反侵略闘争の先駆として評価されている。

[小島晋治]

結果と意義

南京条約とこれを補足する「五港(広州、厦門(アモイ)、福州(ふくしゅう/フーチョウ)、寧波(ニンポー)、上海(シャンハイ))通商章程」(1843)ならびに「虎門寨(こもんさい)追加条約」(1843)によって、中国は領土の一部(香港(ホンコン)と開港場の一画に設けられた租界)と関税自主権、司法上の主権を失い(領事裁判権の承認)、片務的最恵国待遇を与え、没収アヘンの代価と軍事費を内容とする巨額の賠償金を支払い、開港場におけるキリスト教布教を認めることになった。続いて1844年フランス、アメリカも、イギリスに倣って、それぞれ黄埔(こうほ)条約、望廈(ぼうか)条約という不平等条約を結んだ。清朝支配者はこれらの不平等条約が時代を画する意義をもつことを認識せず、従来の「外夷」に対する一時的懐柔策と同じようなものとしか認識していなかった。だがこれらの不平等条約は、発展しつつあった資本主義の世界市場のなかに、中国が従属的な地域として恒常的に組み込まれたことを意味した。さしあたり中国では、伝統的な手工業がなおランカシャー綿布の市場拡大に頑強に抵抗し、イギリスの工業製品輸出は予期したほどは伸びなかった。

 だが事実上合法化されたアヘン貿易は一段と発展して、財政、経済に悪影響を及ぼし、賠償金(計約1900万両)と戦費(約7000万両。当時の清朝の歳入は約3700万両)を賄うための重税の重圧と、ぶざまな敗戦による清朝の権威の失墜とが相まって、やがて太平天国の大動乱を引き起こす要因となった。

 アヘン戦争前まで、日本の武士の多くは、中国を文化の源流であり、また世界の強大国とみなしていた。海防問題に鋭敏だった渡辺崋山(かざん)や徳川斉昭(なりあき)のような識者も、イギリスやロシアはまず日本を支配下において根拠地とし、ついで清国を攻めるだろうと予測していた。この清国の惨敗は、同時代の日本に大きな衝撃を与えた。林則徐の同志であり彼が創始した欧米事情の研究を継承、完成した魏源(ぎげん)の『海国図志』をはじめ、アヘン戦争に関する多くの書物が出版された。そして、固有の儒教文化を絶対視して欧米文明の長所、とくに兵器、艦船、航海術などの吸収を怠ったこと、アヘンの氾濫(はんらん)を許したことに清の敗戦の主因を求め、その失敗のあとを踏まぬための方策が活発に論議されるようになった。

[小島晋治]

『西順蔵・小島晋治他編『原典中国近代思想史1 アヘン戦争から太平天国まで』(1976・岩波書店)』『陳舜臣著『アヘン戦争』(中公新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アヘン戦争」の意味・わかりやすい解説

アヘン戦争
アヘンせんそう
Opium War

アヘン禁輸を発端とする中国の清朝とイギリスとの戦争 (1840~42) 。イギリス東インド会社は中国との片貿易を是正するため,インド産アヘンを中国へ密輸し,その結果中国のアヘン輸入は激増し,巨額の銀流出など経済上,財政上,衛生上,重大な弊害がもたらされた。道光 19 (39) 年,アヘン厳禁論者の林則徐が,欽差大臣として広東に赴任,イギリス商人のアヘンを没収,廃棄した。当時すでに東インド会社の貿易独占権を廃止していたイギリスは,中国側の「公行」による貿易独占を打破し,中国市場を開放しようとしていたので,同 20年パーマストン内閣は開戦を決定した。ブーリーマー,G.エリオット指揮のイギリス陸海軍は舟山諸島を占領,沿海を封鎖したので,清朝は林を解任,琦善に和議交渉を命じた。しかし交渉は結局妥結せず戦争再開となり,同 21年にイギリス軍はアモイ,舟山,寧波を占領し,翌年上海,鎮江を陥れて南京に迫った。そこで清朝もついに屈し,同年7月 (太陽暦8月) ,耆英 (きえい) ,伊里布 (いりふ) をしてイギリス全権 H.ポッティンジャーとの間に南京条約を結ばせ,ここに戦争は終った。

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