耳川の戦(読み)みみかわのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「耳川の戦」の意味・わかりやすい解説

耳川の戦 (みみかわのたたかい)

1578年(天正6)11月12日に日向高城たかじよう)(現,宮崎県都城市)をめぐって行われた大友氏島津氏の決戦。薩摩大隅両国の大名島津義久は,77年末に隣国最有力の大名で大友氏と同盟関係にある伊東氏を日向から駆逐した。その結果大友被官で豊後国境近くの県(あがた)(現,延岡市内)を握る土持親成が島津被官になり,日向守護職をもつ大友氏の被官米良氏らが日向で孤立することになった。このため大友義統(よしむね)は翌年2月日向攻撃,つまり島津氏との対決を決意した。大友氏の戦略は,数にまさる点を利して日向への主力のほかに肥後人吉(現,熊本県人吉市)を経て大隅・薩摩への乱入をねらう別動隊を派遣し,数に劣る島津氏の軍をさらに分断するというものであった。主力は3月末か4月初めに出発し,たちまち県を攻略,さらに進撃をつづけたが,別動隊は人吉の領主相良(さがら)氏との交渉が不調で7月にやっと人吉通過の承認を得,11月初旬に人吉に到着した。一方,日向遠征軍は11月はじめ耳川(美々津川)上流の高城を囲んだ。島津義久は総軍を挙げ,〈平民〉まで動員して高城救援に赴いた。11月12日両軍は激突し,耳川を渡り勝ちに乗じて突撃する大友勢は横あいからの伏勢にあってくずれ,討死,溺死などで大被害をうけて撤退した。島津氏はこの一戦で日向を完全におさえ,大友氏は中枢の年寄6人中3人を失い,首席の田原紹忍敗軍責任を問われて地位を失った。このため大友氏は,以後各地の叛乱に対応できず衰退する。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「耳川の戦」の意味・わかりやすい解説

耳川の戦【みみかわのたたかい】

天正6年(1578年)11月12日に日向国高(たか)城(現宮崎県木城町)から耳川(同県北部の主要河川)にかけての地で行われた島津氏大友氏との合戦。〈高城・耳川の戦〉ともいう。1577年薩摩・大隅両国を支配する戦国大名島津義久は,大友氏と同盟関係にあった伊東氏を日向から駆逐した。そのため大友氏の被官(ひかん)が日向で孤立することになり,大友義統(よしむね)は義久との対決を決意。翌年11月に大友軍が島津方の守る高城を包囲したため,義久は全軍をあげて救援に向かった。同月12日両軍が激突し,勝ちに乗じた大友軍は耳川を渡ったが,横合いからの伏勢にあって崩れ,大敗北を喫した。これにより島津氏は日向国を完全に押さえることになったのに対し,大友氏は有力家臣を失うなどして,以後勢力を失った。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android