耿精忠(読み)こうせいちゅう(その他表記)Geng Jing-zhong; Kêng Ching-chung

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「耿精忠」の意味・わかりやすい解説

耿精忠
こうせいちゅう
Geng Jing-zhong; Kêng Ching-chung

[生]?
[没]康煕21(1682)
中国,清初の武将。正黄旗漢軍旗人。耿継茂長子祖父は遼寧省蓋平出身の武将耿仲明。初め父の軍征に従う。順治 11 (1654) 年,北京で順治帝のもとに侍し,一等精奇尼哈番 (一等子爵) となる。太宗の長子粛親王豪格 (ホーゲ) の娘をめとり,康煕 10 (71) 年父の死により靖南王の爵を継ぎ,福建に鎮する。同 12年広東の平南王尚可喜の引退を聞き,同様に撤藩 (半独立的な藩国の廃止) を願って許されたが,呉三桂の叛により留鎮。同 13年,三桂の反乱に応じ,総統兵馬大将軍と称して挙兵し,三藩の乱を起した。同 15年降伏。降伏後反清勢力の平定に従事したが,三藩の乱平定後に北京に呼返され,同 21年に磔刑となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「耿精忠」の意味・わかりやすい解説

耿精忠
こうせいちゅう
(?―1682)

中国、清(しん)初の武将。靖南(せいなん)王耿継茂(こうけいも)の長子。漢軍正黄旗人。1671年父の死により靖南王を継ぎ、福建を支配した。73年平南王尚可喜(しょうかき)の撤藩を契機に平西王呉三桂(ごさんけい)が乱を起こすと翌年誘いを受けて蜂起(ほうき)、三藩の乱の一翼となった。一時、浙江(せっこう)、江西に進出したが、康親王傑書らの率いる清軍に反撃され、また一時提携した台湾の鄭(てい)氏勢力にも離反されて、76年清に降伏した。以後、清の監視のもとで鄭氏勢力と戦ったが、80年北京(ペキン)に送られ、三藩の乱平定後、82年に処刑された。

[岸本美緒]

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改訂新版 世界大百科事典 「耿精忠」の意味・わかりやすい解説

耿精忠 (こうせいちゅう)
Gěng Jīng zhōng
生没年:?-1682

中国,清初の武将。耿仲明の孫で,耿継茂の長子。1654年(順治11)から北京で清の世祖順治帝のもとに入侍し,粛親王ホーゲ(豪格)の娘を与えられた。63年(康熙2)福建に駐する父のもとに戻り,父の死により靖南王の爵を継いだ。呉三桂が反乱を起こすと(三藩の乱),74年それに応じて清にそむき,福建の諸地をおとしいれ,台湾の鄭氏とも連絡をとったが,76年降伏し,のち処刑された。
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旺文社世界史事典 三訂版 「耿精忠」の解説

耿 精忠
こうせいちゅう

?〜1682
清初期の武将
耿継茂 (こうけいも) の子。1673年撤藩問題のこじれから呉三桂 (ごさんけい) らとともに三藩の乱を起こしたが敗れて降伏,のち処刑された。

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世界大百科事典(旧版)内の耿精忠の言及

【三藩の乱】より

…中国,清初の反乱。三藩sān fānとは雲南に駐する平西王呉三桂,広東の平南王尚可喜,福建の靖南王耿精忠(祖父,耿仲明,父,耿継茂)をいう。彼らは清に下った明の武将とその子孫で,清の中国平定に力を尽くし,王爵を与えられ,有力な軍団を率いて南中国の諸地に駐し,強大な勢力をふるった。…

【清】より

…しかし73年には三藩の乱が勃発して,清朝は再び危機にみまわれた。三藩は平南王尚可喜,靖南王耿精忠,平西王呉三桂であって,南明征討の功によりそれぞれ広東,福建,雲南に封ぜられ,とりわけ呉三桂は親王に昇進していた。三藩は多額の歳費を与えられて直属の漢人部隊をかかえ,その地方の官僚人事を左右するなど,半ば独立王国の権勢をほしいままにしていた。…

※「耿精忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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