中国,清初の反乱。三藩sān fānとは雲南に駐する平西王呉三桂,広東の平南王尚可喜,福建の靖南王耿精忠(祖父,耿仲明,父,耿継茂)をいう。彼らは清に下った明の武将とその子孫で,清の中国平定に力を尽くし,王爵を与えられ,有力な軍団を率いて南中国の諸地に駐し,強大な勢力をふるった。1673年(康熙12)康熙帝が三藩を撤去しようとすると,まず呉三桂が反乱を起こし,ついで耿精忠や陝西の提督王輔臣らが反乱に加わり,台湾の鄭氏も援助し,76年には尚可喜の子,尚之信も反した。三藩側の勢いは初め盛んで,清は苦境に立ったが,やがて形勢が逆転し,王輔臣,耿精忠,尚之信らは清に投降した。78年呉三桂は湖南省の衡陽で帝位についてまもなく死去し,孫の呉世璠があとを継いだ。81年清軍はついに雲南省の昆明を攻略し,呉世璠は自殺して反乱は平定された。この反乱は中国の周辺の諸国にも動揺を起こさせたが,その鎮定により清の中国支配が確立した。
執筆者:神田 信夫
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中国、清(しん)朝の1673~81年の、漢人将軍の反乱。三藩とは雲南の呉三桂(ごさんけい)、広東(カントン)の尚之信(しょうししん)、福建の耿精忠(こうせいちゅう)をいう。満州人政権である清朝は、中国支配にあたって多くの投降漢人を使用したが、その多くが「八旗漢軍」に編入された。しかし、呉三桂、尚可喜(かき)(之信の父)、耿仲明(ちゅうめい)(精忠の祖父)の3人は、それぞれ配下に多くの将兵をもち、中国平定戦争に大功があったため、平定後もその軍団は解体されずに、三桂は雲南に平西王、可喜が広東に平南王、継茂(けいも)(仲明の子)が福建に靖南(せいなん)王として封ぜられ、それぞれ藩府を開き、軍事、財政権を有して、やがて中央政府の意向を無視する独立政権的存在となった。このような三藩の存在は、中国全土を支配下に収めたのちの清朝の容認しうるものではなく、1673年の尚可喜の遼東(りょうとう)への引退願いに端を発して、清朝は三藩の撤藩を命じた。このため三桂が挙兵し、74年に精忠が呼応、76年には之信が三桂に投降した。各地の反清勢力も加わって、一時は揚子江(ようすこう)以南が三藩の支配下となった。しかし、三藩の間に統一した動きはなく、77年ごろから清軍の攻勢が続き、78年8月に湖南で三桂が没し、後継者の呉世璠(せいはん)も81年に自殺し鎮圧された。この乱の鎮圧以後に清の中国支配が確立したといえる。
[細谷良夫]
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清初の反乱。清は中国を平定するのに漢人の武将をよく利用したが,なかでも呉三桂(ごさんけい),尚可喜(しょうかき),耿継茂(こうけいも)(その子精忠)は王爵を与えられて雲南,広東,福建に駐し,三藩といわれた。彼らは大兵を擁して強大な勢力をふるい,しだいに清と対立するようになった。1673年康熙(こうき)帝が三藩を撤去しようとすると,最も勢力のある呉三桂がまず叛き,他の2藩も応じて大乱となった。初めは三藩側が優勢で,呉三桂はやがて帝位についたが,その死後勢いが衰え,81年鎮定された。これより清の中国支配は確立し,康熙・乾隆(けんりゅう)時代の盛世を迎えた。
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…69年(康熙8),帝はクーデタによりこれをたおし,以後は50余年間にわたり名実ともに政治の実権をにぎった。清朝は中国征服に功績のあった呉三桂ら漢人藩王3人を,雲南はじめ南方諸省に封じていたが,かれら三藩は軍事・財政・人事の特権をにぎり,半独立の専横ぶりを発揮したので,73年,帝は彼らに満州への引きあげを命じ,これをきっかけに三藩の乱が起こった。乱は湖南省を中心に南方一帯に拡大し,一時は中国を二分する勢いをしめしたが,帝の巧みな用兵と火砲の威力により,また三藩の側の分裂や呉三桂の死なども影響して,81年平定され,あわせて83年には,長く台湾によって三藩に呼応していた鄭氏の乱も平定されて,清朝の基礎はこれによって固まり,以後台湾は中国領となった。…
…63年(康熙2)福建に駐する父のもとに戻り,父の死により靖南王の爵を継いだ。呉三桂が反乱を起こすと(三藩の乱),74年それに応じて清にそむき,福建の諸地をおとしいれ,台湾の鄭氏とも連絡をとったが,76年降伏し,のち処刑された。【神田 信夫】。…
…子の耿継茂が王爵を継ぎ,広州ついで福州に駐した。清初の三藩の一つで,孫の耿精忠は呉三桂に呼応して三藩の乱をおこした。【神田 信夫】。…
…これより先59年には漢中から雲南の昆明に移鎮し,雲南・貴州両省の総管として行政軍事を統轄し,大きな勢力をふるった。73年清に対し反乱(三藩の乱)を起こし,自ら天下都招討兵馬大元帥周王と称した。初めは勢いが盛んで清軍を圧倒したが,やがて形勢が逆転した。…
…69年(康熙8)康熙帝はクーデタでこれを倒し,政権をとりもどした。しかし73年には三藩の乱が勃発して,清朝は再び危機にみまわれた。三藩は平南王尚可喜,靖南王耿精忠,平西王呉三桂であって,南明征討の功によりそれぞれ広東,福建,雲南に封ぜられ,とりわけ呉三桂は親王に昇進していた。…
※「三藩の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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