日本歴史地名大系 「能見村」の解説 能見村のみむら 愛知県:岡崎市能見村[現在地名]岡崎市元能見(もとのみ)町・福寿(ふくじゆ)町・城北(じようほく)町岡崎城の北、外堀の外側に位置し、東に能見町、北は伊賀(いが)村に接する。能見町とともに、岡崎城の北のこの辺り一帯は古くより能見原と称した。能見村の東側が能見町となり岡崎宿中に入ると、それに対し能見村を西能見ともよんだ。近世、能見村の近藤弥兵衛家に伝えられた「能見村根元之事・諸々由来之事」(真野氏所蔵)には、矢作の兼高長者がここで月に六度の能狂言を催したところより能見村と名付けたと伝える。享禄四年(一五三一)の大林(だいりん)寺宛松平清康の禁制(旧大林寺文書)に「三州額田郡能見郷拾玉山大林寺境内」とあり、その頃は大林寺のある辺りも含めて能見郷と称していた。しかし、慶長九年(一六〇四)の松応(しようおう)寺の朱印状(松応寺文書)に、「一、五十石 参州額田郡能見郷之内 一、五十石 同 州郷之内」とある。これはかつて総持尼(そうじに)寺領菅生(すごう)郷を松平氏が蚕食して、能見松平氏がこの能見郷の辺りに所領を有したが、慶長の頃、東能見の松応寺領は菅生村に含まれていたことを示している。 能見村のうみむら 愛知県:東加茂郡旭町能見村[現在地名]旭町榊野(さかきの)矢作川の支流阿摺(あすり)川に沿う。東は小沢(こぞう)村・加塩(かしお)村、南は鳥巣(とりのす)村、西は万根(まんね)村、北は月畑(つきばた)村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。現主要地方道土岐―足助線と県道平沢―御蔵線が通る。縄文時代早期・前期・後期・晩期の榊野広見(さかきのひろみ)遺跡が河岸段丘上にある。能見城跡が山の尾根の突端にある。比高約二〇メートル。三方を阿摺川の谷が囲む。本丸・二の丸、本丸の中の櫓跡、堀切(空堀)などがある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by