菅生村
すごうむら
[現在地名]加賀市大聖寺菅生・大聖寺東町
山田町領の東、大聖寺川に流入する三谷川の下流左岸にある。地名は沼田が多く菅の生茂ったことに由来するという(加賀志徴)。「三代実録」元慶七年(八八三)一二月二八日条に「菅生神」が正五位下を授与されたとあり、この菅生神が「延喜式」神名帳に載る江沼郡の菅生石部神社で、戦国期以降は敷地天神ともよばれ、敷地村に鎮座する。敷地は本来は菅生石部神社の境内の意であり(加賀志徴)、鎌倉期までは大聖寺川右岸の敷地村一帯も菅生に含まれていたと考えられ、正和五年(一三一六)二月日の地頭代祐光申状(大乗院文書)に「菅生敷地々頭」とみえる。寿永二年(一一八三)平家軍が木曾義仲軍と戦って敗走した諸所に「須川山」「須川林」がみえ(源平盛衰記)、いずれも菅生石部神社の後背丘陵地に比定される。中世には京都北野社領福田庄に属し、この時期の菅生は、現大聖寺菅生・大聖寺東町のほか大聖寺菅生町・大聖寺永町も含んだとみられる。
「蓮如上人御一代聞書」に「加州菅生ノ願生」が荻生願成寺の住持蓮智の不信心をいさめたとある。
菅生村
すごうむら
[現在地名]江刺市梁川
鴨沢村の東に位置し、北上高地西縁の山地や丘陵に立地。中央を菅生川が南西流し、流域に狭長な河岸平地が開けている。「正法年譜住山記」応永二年(一三九五)条に「江刺須合入道鴨沢郷之内三百苅寄進之」とあり、当地名を冠する須合入道が鴨沢郷地内を寄進している。戦国時代には大尻に葛西氏持城の葛西館があった(安永風土記)。正保郷帳に村名がみえ、田一九貫四五三文・畑一五貫二二九文、ほかに新田三貫九〇六文がある。
菅生村
すがおむら
[現在地名]あきる野市菅生
草花丘陵の谷間、鯉川筋にあり、東は草花村、南は平井川対岸の瀬戸岡村。村の北方の青梅八王子道にまんじ(満地)峠があるという(風土記稿)。天文二〇年(一五五一)九月六日の広徳寺領書立(広徳寺文書)に「須賀尾」とあり、秋川流域の領主で滝山城(現八王子市)城主大石道俊が小和田の広徳寺領を安堵したもの。文書の袖に小田原北条家の虎朱印が捺されており、大石氏の領域支配が衰えていることをうかがわせる。鎌倉期、菅生には横山党菅生氏が居住したというが、建暦三年(一二一三)の和田合戦で横山党は和田義盛に味方して一族全滅している。
菅生村
すごうむら
[現在地名]村田町菅生
足立村の北東、郡北東端山間部にあり、名取川支流で北流する菅生川の源流部にあたる。北は名取郡坪沼村(現仙台市)、東は同郡笠島村(現名取市)、西は支倉村(現川崎町)。仙台・名取郡・笹谷街道・支倉村碁石宿、南方の村田郷などへ至る道が通じ、交通の要衝で、「封内風土記」は「有市店」と記す。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十五〆仁百四十文 すかう」とみえる。「伊達世臣家譜」によれば、戦国末期に菅生伯耆がこの地に来て菅生姓を名乗ったという。村の北方比高六〇メートルほどの館山に菅生城跡があり、「仙台領古城書上」によれば城主は菅生助八郎。
菅生村
すごうむら
[現在地名]新見市菅生
上熊谷村・下熊谷村の北、高梁川左岸に位置し、西谷川・別所川が流れる。村域の大部分は山地で、吉野河内・青地・摺臼原・天原・東・西谷・中組・大原・大谷・桜・仁子谷・小綿・郷原・用郷・別所・塩津・阿福・千原・小原・灰ヶ峠の集落が点在する。戦国末期と推定される新見氏所領目録(竹田家文書)に「七十五貫 すかう谷」とみえる。寛永備中国絵図に村名がみえ、高三八二石、松山藩領(以後の領主の変遷は新見村に同じ)。正保郷帳でもほぼ同高、雑木林小・柴山中・芝草山小とあり、枝村として天原村・摺臼原村・吉野河内村・西谷村をあげる。
菅生村
すがおむら
[現在地名]水海道市菅生町
菅生沼の東に所在。東は坂手村・内守谷村。集落中央を銚子街道が南北に縦貫。上野・古谷・平松・原・中郷・大並・下香・樽井の字がある。「東国戦記実録」には永禄四年(一五六一)の記事として「上野金山新田ノ麁流ニ横瀬能登守長氏ト云人アリ北条氏康ニ攻メラレテ本国ヲ立退キ下総国ニ落来リ猿島郡弓田城主染谷民部ヲ頼テ岩井馬洗ト云処ニ蟄居シタリ(中略)然ルニ同所菅生城主菅生越前ト染谷ハ中悪ク稍モスレハ合戦ニ及ハントス(下略)」とみえる。
菅生村
すごうむら
[現在地名]木更津市菅生・日の出町・清見台東二―三丁目・清川一―二丁目・祇園四丁目
椿村の西、小櫃川下流左岸に位置し、東西に久留里道が通る。中世は菅生庄のうち。現銚子市円福寺にある享徳一一年(寛正三年、一四六二)一二月一五日の梵鐘銘に「於上総国菅生庄本郷飯富宮社頭奉再興鋳鐘一口」とみえ、本郷は当地にあたると考えられる。
菅生村
すごうむら
[現在地名]三重町菅生
芦刈村の北東、三重川支流又井川へ注ぐ菅生川流域にある。日向道が北東から南西へ通り、東方を三重川が蛇行しながら北流する。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には菅生村分と芦刈村が一括された一冊が含まれる。村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に菅生村とみえ、高三四八石余、下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二五二石余・畑方九六石余。
菅生村
すごうむら
[現在地名]美原町菅生
丹南郡に属し、東は平尾村。村域北部を東除川が南西から北東に流れ、同川左岸の平坦部と右岸の羽曳野丘陵西麓部からなる南高北低の村。古代丹比郡菅生郷(和名抄)の遺称地。中世には安貞二年(一二二八)八月五日の七条院処分目録案(東寺百合文書)にみえる菅生庄があった。同庄は七条院領であったが修明門院に譲られ、のち大覚寺統に継承された。
菅生村
すぎゆうむら
[現在地名]松阪市菅生町
立利村の東、櫛田川の左岸にある。天暦七年(九五三)近長谷寺資財帳(近長谷寺文書)に「菅生里」とみえ、
<資料は省略されています>
とあり、一〇世紀前半に、当村域に近長谷寺(現多気郡多気町)の寺領が成立していた。天文一五年(一五四六)書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)にも「菅生里」「菅生ノ北浦」といった地名がみえ、「菅生里分」として三ヵ所が書上げられ、杉山殿知行とあり、さらに「菅生円頓寺」と記されている。
菅生村
すごうむら
[現在地名]久万町菅生
久万川の左岸にあって川を隔て、久万町村に対する。村名は菅生山大宝寺の縁起にちなむ。「愛媛面影」に、「明玉集」藤原為頼の歌として、
<資料は省略されています>
とある。瀬戸内海から望見できる菅生山という山はないが菅生山大宝寺の名が古くから知られていたことがわかる。正安元年(一二九九)の「一遍聖絵」に「文永十年癸酉七月に予州浮穴郡に菅生の岩屋というところに参籠し給ふ」とある。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「菅生村 日損所、林山有、野山有」とある。寛保元年(一七四一)頃成立の「久万山手鑑」によると、耕地八〇町四反二畝、うち田三九町九反二畝とあるから水田率五〇パーセント、久万山では田の多い村に属する。
菅生村
すごうむら
[現在地名]足助町菅生
伊那街道沿いの桑田和村から美濃街道沿いの八桑村へ通じる道に沿う。東は玉ヶ瀬村・上垣内村・丹波村、南は須田村・桑田和村、西は安代村、北は久木村・八桑村・永野村に接する。ほぼ中央を足助川に注ぐ小さな谷川が南流する谷地形。集落は谷川沿いの急傾斜地に点在する。寛永一二年(一六三五)当時、酒呑村(現豊田市)に陣屋を置く旗本鈴木友之助知行地。
菅生村
すごうむら
[現在地名]岐阜市菅生
東島村の西に位置し、西は江口村、北は西島村・北島村。集落は南を流れる長良川の堤沿いに散在する。須郷・須河とも記された。天正一六年(一五八八)七月七日、池田輝政の家臣若原尚長によって菅生のうち別当屋敷二貫文が八幡宮の灯明代として寄進されている(「若原尚長書状写」八幡神社文書)。慶長郷帳に「須郷村」、元和二年(一六一六)の村高領知改帳に「すかを村」とみえ、高一七一石余。
菅生村
すごうむら
[現在地名]竹田市菅生
岡城下から玉来村を経て肥後に通じる往還に沿い、北は今村、南は杉園村(現荻町)。岡城下から三里一五町。正保郷帳では大戸郷に属し、田方四三石余・畑方一五九石余で、日損所と注記される。菅生組大庄屋の居村。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は中、免四ツ三分、田三一石余(三町一反余)・畑八五石余(三三町三反余)・屋敷四石余(四反余)で、開田三斗余(一反余)・開畑七石余(一四町六反余)がある。旧高旧領取調帳では高二三九石余。文化八年(一八一一)秋の文化大一揆はこの菅生組を含む岡藩領内の葎原組・恵良原組・柏原組(以上三組は現荻町)のいわゆる四原を震源地とする。
菅生村
すごうむら
[現在地名]山添村大字菅生
大西村の南方に位置する。近世初期は畑郷の内。慶長郷帳に菅生村の名がみえ、村高は一八七・二七二石。元和郷帳には「山辺郡畑六ケ村ノ内菅生村」とみえる。慶長―元和期(一五九六―一六二四)は旗本赤井氏(忠泰系)領。元禄郷帳では村高三七四・五四五石、うち一八七・二七二石は赤井六兵衛領、一八七・二七三石は旗本荘(庄)田小左衛門領の相給村である。
菅生村
すごうむら
[現在地名]池田町菅生
新保村の北に位置し、足羽川の支流、魚見川の北岸にある。建武年間(一三三四―三八)に夏梅治郎右衛門という者が寿川村を菅生村と改めたと伝える(池田町史)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「次川村」として高一一一・九一石とあり、正保郷帳で菅生村となり、田方九八石余・畠方一三石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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