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自由統一党 じゆうとういつとう

百科事典マイペディアの解説

自由統一党【じゆうとういつとう】

英国の政党。1886年グラッドストーン提出のアイルランド自治法案に反対したJ.チェンバレンら約100人の自由党下院議員が脱党して結成。のち保守党に接近,両者を合わせて統一党と呼ばれるようになり,連立内閣を組織したこともあった。
→関連項目保守党(英国)

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世界大百科事典 第2版の解説

じゆうとういつとう【自由統一党 Liberal Unionists】

1886年から20世紀の初めにかけて存在したイギリスの政党。86年,自由党の党首グラッドストンが時の最大の政治課題と考えたアイルランド自治法案を下院に提出すると,J.チェンバレンの率いる党内急進派とハーティントン卿を中心とするホイッグ貴族は,イギリス帝国の保全をより重視する立場からこの法案に反対し,自由党を脱退して自由統一党を結成した。〈統一〉という言葉の意味は,グレートブリテン島とアイルランドの統一のことで,この政党はその後,全イギリス帝国の保全と統合を党是とする保守党との連携を強め,両者合して統一党の名称の下に一括されるようになっていった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

自由統一党
じゆうとういつとう
Liberal Unionist Party

イギリスの政党。1886年、グラッドストーン自由党内閣が提出したアイルランド自治法案をめぐって自由党が分裂した際、自治に反対して党を去った、ジョゼフ・チェンバレンやハーティントン侯などによってつくられた。アイルランドとの「統一」維持を鼓吹するところからこの名がある。95年にソールズベリー保守党内閣に参加したのちは、独自の組織と資金をもちながらも、保守党との融合を深め、1912年に最終的に保守党に吸収された。1886年に79名いた下院議員もこの過程で漸減し、1910年12月選挙では35名を当選させるにとどまった。[木畑洋一]

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世界大百科事典内の自由統一党の言及

【自由党】より

…この時期のイギリスは,アメリカ合衆国,ドイツ等列強の世界市場進出に押されて帝国への依存度を高めたが,党首グラッドストンは,議会内のアイルランド党と協力して,あくまでも平和主義の路線に固執し,その見地からアイルランド問題の解決に熱中した。だが,党内ホイッグ貴族とJ.チェンバレンをはじめとする急進派は,イギリス帝国の利害を重視する立場から党首に同調せず,86年のアイルランド自治法案の審議を契機に脱党して自由統一党を結成した。以後,ボーア戦争(1899‐1902)にかけて,自由党は,議会内で多数党の地位を失っただけでなく,党内もグラッドストン派と自由帝国主義者が対立して弱体化し,政局の主導権を保守党にゆだねなければならなかった。…

【チェンバレン】より

…と同時に急進的な自由主義者としてしだいに政治へと転身し,1873年バーミンガム市長に選ばれ,ガス・水道の公営化,スラム街の撤去等の衛生・行政改革を断行,政治家としての基盤を確立した。76年,バーミンガムから下院議員に当選,以後,自由党内急進派の領袖となり,第2次グラッドストン内閣の商務相(1880‐85),第3次グラッドストン内閣の自治相(1886)を歴任したが,アイルランド自治問題で党首グラッドストンと衝突して自由党を脱退,党内保守派の領袖であったハーティントン卿とともに自由統一党を結成した。95年,ソールズベリーの保守党内閣に植民相として入閣,イギリス帝国の統合を強力に推し進め,ボーア戦争を遂行した。…

※「自由統一党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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