チェンバレン(読み)ちぇんばれん(英語表記)Joseph Chamberlain

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チェンバレン」の意味・わかりやすい解説

チェンバレン(Owen Chamberlain)
ちぇんばれん
Owen Chamberlain
(1920―2006)

アメリカの物理学者サンフランシスコの生まれ。ダートマス大学を卒業後、1941年カリフォルニア大学大学院に入学した。1942年より原子爆弾製造のマンハッタン計画に参画し、セグレのもとで原子核の自然崩壊などの研究に従事した。1946年よりシカゴ大学でフェルミの指導のもとで研究を続けて、博士号を得た。1948年よりカリフォルニア大学で教職につき、そこでセグレらと陽子‐陽子散乱の広範囲な研究を行った。同大学には、反陽子をつくりだすことを目的として建造されたベバトロンとよばれる陽子加速器があり、彼らはそれを利用して反陽子を実験的に発見し(1955)、1959年、セグレとともにノーベル物理学賞を受賞した。なおパーキンソン病に侵されながらも2000年に行った口述筆記のなかで、オッペンハイマーらと行ったマンハッタン計画、さらに日本における原子爆弾の使用にも触れていた。

[佐藤 忠]


チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain)
ちぇんばれん
Arthur Neville Chamberlain
(1869―1940)

イギリスの政治家。ジョゼフ・チェンバレンの子(オーステンの異母弟)としてバーミンガムで生まれる。1890年からバハマ諸島に父が所有する農場でアサの栽培を試みたが失敗し、バーミンガムに戻って実業界に入った。市の行政にも関与したのち、1918年保守党下院議員となり、郵政相(1922)、保健相(1923、1924~1929、1931)、蔵相(1923~1924)を歴任した。この間、保健相としての住宅建設促進で名をあげた。1931年から1937年にかけてはふたたび蔵相を務め、マクドナルド、ボールドウィン両政府の第一の実力者として保護関税の採用などを行った。この時期から、対外拡張政策をとるドイツ、イタリア、日本に対する「宥和(ゆうわ)政策」を主張していたが、1937年に首相に就任後、それをさらに積極的に推進した。しかし第二次世界大戦の開始を防ぎえず、1940年5月、保守党内部からも不信を買って首相辞任に追い込まれた。

[木畑洋一]


チェンバレン(Joseph Chamberlain)
ちぇんばれん
Joseph Chamberlain
(1836―1914)

イギリスの政治家。ロンドンで生まれる。18歳のときからバーミンガムのねじ製造会社で働き、事業に成功を収めたのち政治家に転身、1873年から1875年にかけてバーミンガム市長を務めた。早くから社会改革に関心をもち、市長在任中は、公園、道路建設、スラム一掃などに力を注いだ。1876年に自由党下院議員となり、1880年グラッドストン内閣の商務相に就任した。1886年にアイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成、保守党に接近していった。1895年ソールズベリー保守党内閣の植民地相となり、植民地のもつ経済的価値を重視しつつ、帝国の拡大・統合を目ざす政策を展開、また南アフリカ戦争ブーア戦争)の開始にも大きな役割を演じた。1903年、政府から退いて、保護関税を求める関税改革運動を繰り広げたが、自由貿易の伝統の厚い壁の前に成功せず、1906年病に倒れて第一線を去った。

[木畑洋一]


チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)
ちぇんばれん
Basil Hall Chamberlain
(1850―1935)

イギリスの日本語・日本文化研究者。ポーツマスで生まれ、1873年(明治6)来日、1886年に帝国大学教師となり、芳賀矢一(はがやいち)、上田万年(うえだかずとし)などを教える。『古事記』の英訳(1883)、『A Simplified Grammar of the Japanese Language, modern written style』(日本近世文語文典、1886)、『A Handbook of Colloquial Japanese』(日本口語文典、1888)、『Things Japanese』(日本事物誌、1890)などの著作で日本語・日本文化を研究・紹介した。1911年(明治44)離日、1935年2月15日没。

[古田 啓 2018年8月21日]

『国際文化振興会編・刊『バジル・ホオル・チェンバレン先生追悼記念録』(1935)』『佐佐木信綱編『王堂チェンバレン先生』(1948・好学社)』


チェンバレン(Sir Joseph Austen Chamberlain)
ちぇんばれん
Sir Joseph Austen Chamberlain
(1863―1937)

イギリスの政治家。ジョゼフ・チェンバレンの子(ネビルの異母兄)としてバーミンガムで生まれる。1892年、自由統一党下院議員となり、バルフォア内閣で郵政相(1902~1903)、蔵相(1903~1904)を務めた。第一次世界大戦中はインド相(1915~1917)に就任、1918年には少人数の戦時内閣に加わった。戦後ふたたび蔵相(1918~1921)となり、1921年保守党党首の座についたものの、保守党の大勢が自由党のロイド・ジョージとの連立に見切りをつけるなかで、1922年秋までしか党首の地位を保てなかった。その後、ボールドウィン政府の外相(1924~1929)として、ロカルノ条約の締結などに力を尽くした。1925年ノーベル平和賞受賞。

[木畑洋一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チェンバレン」の意味・わかりやすい解説

チェンバレン
Chamberlain, Joseph

[生]1836.7.8. ロンドン
[没]1914.7.2. ロンドン
イギリスの政治家。家業 (靴製造業) につき,父の事務所で働いたのち,ねじ製造会社で事業家として成功。 1869年自由党員としてバーミンガム市会議員となる。 73~76年バーミンガム市長。その間,バーミンガム衛生担当者会議を主宰し,ガス・水道の市営化,スラム街の一掃,公園,無料の図書館,美術館の建設などを実施,都市生活の組織的改善を目指す近代的な運動の先駆者となった。 76年下院議員に選出され,J.ブライトとともに自由党左派に属し同党の再編成に尽力。 80年第2次グラッドストン内閣の商務院総裁。 86年第3次グラッドストン内閣の地方行政院総裁。同年3月アイルランド自治法案の提出に反対して辞職,6月同法案否決に成功。 88年自由統一派を結成。第3次ソールズベリー内閣の植民相。 1902年帝国特恵関税制度確立の必要性を主張。同年南アフリカのトランスバール共和国を訪れボーア人との民族的和解に尽力。 03年植民地,自治領からの穀物輸入の特恵関税をめぐって政府の方針と相いれず辞職。 06年まで全国を遊説し政府の貿易関税政策を攻撃,同年の総選挙で首相 A.バルフォアの率いる統一党を惨敗させ,同党を分裂させた。その後病に倒れ政治活動から退いた。なお,中央政界に入ったのちもバーミンガムの発展に尽力し,バーミンガム大学を創立,1900年同総長に就任した。

チェンバレン
Chamberlain, Wilt

[生]1936.8.21. ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1999.10.12. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国のバスケットボール選手。フルネーム Wilton Norman Chamberlain。NBA史上最高のオフェンスプレーヤーの一人と評される。フィラデルフィアのオーバーブルック高校で活躍し,100校以上もの大学からスカウトされる。カンザス大学で 2年間プレーしたのち,ショーバスケットボールチームのハーレム・グローブトロッターズに 1年間所属。1959年に NBA入りし,1965年までフィラデルフィア・ウォリアーズ(1962年の移転に伴いサンフランシスコ・ウォリアーズに改称)に在籍,1965~68年フィラデルフィア76ersでプレーしたのち,ロサンゼルス・レイカーズに移籍,1973年選手生活を終えた。生涯の通算得点は 3万1419点。1962年ペンシルバニア州ハーシーでの対ニューヨーク・ニックス戦では 100得点をたたき出し,プロバスケットボール史上最多の 1試合得点をあげた。また,1961―62年シーズンには 4029得点,1試合平均 50.4点をマークし,1シーズンに 4000得点以上をあげた NBA最初の選手となった。NBAの試合で一度も反則退場したことがないという偉業の持ち主。1978年にネイスミス記念バスケットボール殿堂入りを果たした。

チェンバレン
Chamberlain, Sir (Joseph) Austen

[生]1863.10.16. バーミンガム
[没]1937.3.16. ロンドン
イギリスの政治家。ジョーゼフ・チェンバレンの長男。 N.チェンバレンの異母兄。ケンブリッジ大学卒業。 1892年下院に選出される。最初自由統一派に所属,のち保守党に転じ,1900~02年ソールズベリー内閣の大蔵次官をつとめ,02~03年 A.バルフォア内閣で郵政長官。 03~05年蔵相。植民相を辞した父と首相バルフォアをつなぐ役割を果し,野党となったのちは関税改革を支持。 15年5月 H.アスキスの連立内閣組織とともにインド相。 18年4月ロイド・ジョージ内閣の閣僚となり,19年1月から 21年まで蔵相。 21年3月~22年 10月保守党党首。その間アイルランドとの戦争終結のための条約 (1921.12.) に調印。 24年 11月~29年第2次ボールドウィン内閣の外相。 25年 10月ロカルノ条約の締結に尽力,同年 C.ドーズとともにノーベル平和賞を受賞。国際連盟を支持し,26年ドイツの連盟加入の実現に貢献。 31年8月 R.マクドナルド挙国内閣の海相となったが,まもなく辞任。

チェンバレン
Chamberlain, Basil Hall

[生]1850.10.18. ポーツマス
[没]1935.2.15. ジュネーブ
イギリスの日本学者。みずからはチャンブレンと書いた。号は王堂。 1873年来日。 86年帝国大学 (現東京大学) 教師となって博言学 (言語学) を講じ,91年名誉教師。 1911年日本を去りジュネーブに隠棲。日本語を中心に,文学,歴史,神話など多方面にわたる研究を行い,多くの学者を育てた。特に『琉球語文典及び辞書のための試論』 Essay in Aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language (1895) は祖語三母音説という大きな誤りをおかしてはいるものの,「日本語」と「琉球語」が同系であることを証明した最初のものとして知られる。ほかに『日本口語文典』A Handbook of Colloquial Japanese (88) などの文法書や『古事記』の英訳 (83) などがある。

チェンバレン
Chamberlain, Owen

[生]1920.7.10. カリフォルニア,サンフランシスコ
[没]2006.2.28. カリフォルニア,バークリー
アメリカ合衆国の物理学者。 1941年ダートマス大学を卒業。 1942年から4年間原子爆弾開発のマンハッタン計画に参加。 1948年シカゴ大学で博士号を取得後,カリフォルニア大学に勤め,1958年同大学教授,1989年名誉教授となる。 1955年エミリオ・G.セグレらとともにベバトロン加速器を用いて反陽子 (反核子 ) を発見し,翌 1956年反中性子の存在を確認した。その後も高エネルギー物理学の研究を続け,1959年セグレとともにノーベル物理学賞を受賞した。

チェンバレン
Chamberlain, John

[生]1927.4.16. インディアナ,ロチェスター
[没]2011.12.21. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の彫刻家。フルネーム John Angus Chamberlain。1951~52年シカゴのアート・インスティテュート,1955~56年ノースカロライナのブラックマウンテン・カレッジに学ぶ。曲がったりつぶれたりした自動車の部品や,そのほかの金属の廃品を素材としたアセンブリッジの彫刻を制作。鮮やかな工業用塗料を塗った作品が多い。その後,金属以外にフォームラバーを多く用い,幻想的な作品を制作するようになった。主要作品『エセックス』(1960) 。

チェンバレン
Chamberlain, (Arthur) Neville

[生]1869.3.18. バーミンガム,エッジバストン
[没]1940.11.9. ハンプシャー,ヘクフィールド
イギリスの政治家。ジョーゼフ・チェンバレンの次男。メーソン・カレッジ (のちのバーミンガム大学) に学び,バーミンガム市で金物製造業者として成功。 1911年市議会議員,15年市長。 18年 50歳で保守党から下院入り,23年以降 S.ボールドウィン内閣と J.マクドナルド内閣の蔵相,保健相を交互につとめた。 37年首相,38年にミュンヘン協定を結び,A.ヒトラーへの宥和政策を実施。 39年ドイツのポーランド侵略に際し対独宣戦を布告。 40年ノルウェー遠征に失敗し辞任。枢密院議長となったが,まもなく病気のため辞職した。

チェンバレン
Chamberlain, Houston Stewart

[生]1855.9.9. サウスシー
[没]1927.1.9. バイロイト
ドイツの政治哲学者。イギリスに生れ,ドレスデン,ウィーン,バイロイトに居住し,1916年ドイツに帰化。アーリア人種またはゲルマン人種の優越性を唱え,他の人種の劣等性を強調。ナチス世界観の基礎,帝国主義的搾取,人種的抑圧などの弁護に利用された。主著『19世紀の基礎』 Die Grundlagen des 19 Jahrhunderts (2巻,1899~1901) ,『アーリア人の世界観』 Arische Weltanschauung (05) 。

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