芝新網町(読み)しばしんあみちよう

日本歴史地名大系 「芝新網町」の解説

芝新網町
しばしんあみちよう

[現在地名]港区浜松町はままつちよう二丁目・海岸かいがん一丁目

芝浜松しばはままつ町三丁目・同四丁目の東に位置する両側町の町屋。新網町ともいう。北は小田原藩大久保家上屋敷、東は紀伊徳川家下屋敷・陸奥二本松藩丹羽家蔵屋敷、南はみなと町。

〔近世〕

古くは一円芝浦と唱える海辺漁村で、徳川家康関東入部の頃は漁民が多く居住していたという。寛永三年(一六二六)九月三日芝浦のうち名主大場伝右衛門が治める町が江戸城に白魚献上するよう命じられた。献上の褒美として金子を与えられ、それ以降江戸城へ白魚を献上するようになった。同六年三代将軍徳川家光の日光社参で下総国古河こが(現茨城県古河市)へ逗留した際にも白魚を献上、同七年七月一〇日褒美に網干場として一〇〇間四方の浜端を下し置かれた。同一一年九月二一日町奉行へ漁師の住む屋敷地を願上げ、網干場として下賜された地所に町割を行い芝新網町と唱えた(「御府内備考」・文政町方書上)。沿革図書によれば延宝年間(一六七三―八一)から文久二年(一八六二)の図に至るまで入堀を境に南新網町・北新網町(新網町南側・新網町北側)と記されるが、里俗名であり南北合せて新網町とする(文政町方書上・昌平町鑑・袖玉町鑑)。延宝江戸方角安見図には南北の区別なく「新アミ町」とみえる。

寛文七年(一六六七)一一月町内南側金杉かなすぎ川通りのうち東西一〇〇間・南北幅八間、約八〇〇坪の地所が御用地とされ土手が築かれた。代地は三田に与えられ、延宝五年五月元地の四割増で割付けられて芝新網町代地と唱えた。土手は元禄九年(一六九六)に取払われ、跡地坊主衆拝領町屋敷となって芝新同朋しばしんどうぼう(後に湊町)と唱えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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