花瀬村(読み)はなぜむら

日本歴史地名大系 「花瀬村」の解説

花瀬村
はなぜむら

[現在地名]金峰町花瀬

宮崎みやざき村の南東に位置し、村の南側の加世田郷川畑かわばた(現加世田市)との境を万之瀬まのせ川が西流する。地名の由来は万之瀬川沿岸が滝と奇岩の景勝地で、激流の白波が花のようであったことによるという。当村の北西部は阿多あた麓とよばれ、中世の山城鶴之つるの城跡付近に地頭仮屋が置かれ、阿多郷の行政の中心であった。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によると高五五四石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高三三五石余。旧高旧領取調帳では高三七四石余。阿多新田は享保一〇年(一七二五)に鹿児島藩主の命により田部田たべたこえはる(現川辺町)から当村鳥井口とりいぐちまで全長一六キロの用水路(新田川)を三年かけて開削したことにより開発された(新田川水路工事記念碑)


花瀬村
はなせむら

[現在地名]飯塚市花瀬

龍王りゆうおう(六一五・六メートル)の東麓、御手水おちようず(現大日寺川)流域に位置し、北は丘陵を挟んで伊岐須いぎす村など。小早川時代の指出前之帳では穂波ほなみ郡花瀬村の田一四町五反余(分米一七九石余)・畠五反余(分大豆二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二七九石余、うち大豆五石余(慶長石高帳)領主変遷川津かわづ村に同じ。元禄五年(一六九二)には高二八四石余、家数一九・社一、人数一〇七(田圃志)


花瀬村
はなぜむら

[現在地名]相生町花瀬

日浦ひうら村の北西、那賀川右岸の山間にある。村は九州からの移住者によって開発されたと伝える。江戸時代初期の国絵図類、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳には記載がない。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)に村名がみえ、人数四五(男二〇・女二四・山伏一)。文化一〇年(一八一三)の高都帳によると高三五石余。「阿波志」では土田は水陸田四町八反余、家数一八・人数七二。文化八年の棟付帳(日野谷村の歴史)によると家数二三、うち堂一・山伏一・林目付一・先規奉公人一・肝煎一、人数一一〇、うち山伏一・先規奉公人五・女四七、牛一六。林目付は露口家で、元和元年(一六一五)から勤めていたといい、横石よこいし村の野村家とともに木頭代官、のちには林奉行配下にあった(以上「日野谷村誌」「日野谷村の歴史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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