花田村
はなだむら
[現在地名]関城町花田
板橋村の南、藤谷村・関館村の西に位置する。村の東にはかつては大宝沼があった。戦国時代は多賀谷氏領であったが、慶長七年(一六〇二)天領となる。宝暦年間(一七五一―六四)に旗本佐野氏領となり、同一一年の年貢割付状(田崎賢司家文書)に佐野吉之丞の名がみえる。文政一〇年(一八二七)再び天領となり、天保二年(一八三一)頃の知行割替で村高一八八石余のうち九八石余は天領、九〇石は旗本中西氏領となった(同文書)。
天保一〇年の宗門人別御改帳(同文書)によると、天領九八石余のうち五一石余は荒地高で、さらに嘉永四年(一八五一)の極難困窮人御救被下人撰入札帳(二宮尊徳全集)によると、中西氏領九〇石はすべて潰百姓の持高とされており、村内の二八軒の百姓も一八軒までが潰百姓となっていた。
花田村
はなだむら
[現在地名]柏崎市花田
東は曾地村・飯塚村、西は曾地新田、北は新屋敷村(現刈羽郡刈羽村)。原田保の遺称地とする説があり、寺尾(現刈羽村)の善照寺の増珍の代に廃滅した「原田正寿寺」の什具を同寺に納めたと伝える(「曼荼羅山覿伝録」善照寺蔵)正寿寺は当地にあったとする説がある。慶長三年(一五九八)の検地帳(蔵部敏雄氏蔵)の表紙には「原田村」と記す。反別合計は八町五反余、分米合計九〇石四斗余。
花田村
はなたむら
[現在地名]越谷市花田・東越谷
増林村の西に位置する。もと越ヶ谷町の地続きで、北東方に迂回していた荒川(元荒川)に囲まれた地であったが、寛永年間(一六二四―四四)同川が越ヶ谷天嶽寺前から小林村にかけて直道に開削されたため、左岸に位置するようになった。花田の地名はその地形が天狗の鼻に似ていることから、あるいは越ヶ谷の鼻の先からともいわれる(越ヶ谷瓜の蔓)。田園簿に村名がみえ、高は田方九一石余・畑方一四〇石余。
花田村
はなだむら
[現在地名]南河内町花田
南北につらなる宇都宮西台地に位置し、東を吉田用水が南流する。北は下坪山村。元禄郷帳・天保郷帳に絹板村枝郷とある。出羽秋田藩領。寛永五年(一六二八)の万相定覚(国立公文書館蔵)に絹板村とともに村名がみえ、高一七石余、納米三石余、両村合せた肝煎手作二〇石・肝煎免米一石・関免米一石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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