芹田村(読み)せりたむら

日本歴史地名大系 「芹田村」の解説

芹田村
せりたむら

[現在地名]仁賀保町芹田

白雪しらゆき左岸河口に位置する。東は白雪川を挟んで三森みつもり村、南は黒川くろかわ村(現金浦このうら町)に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保郷の一村として村名がある。「柞山峯之嵐」のうち由利十二頭伝記に「芹田邑には芹田伊予守」とあり、由利十二頭の一人芹田氏の旧領であったという。

慶長七年(一六〇二)最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となる。寛永元年(一六二四)仁賀保家の分知に際し、良俊(七千石家)領になったが、同八年天領となり、庄内しようない(現山形県)酒井氏の預領となる。


芹田村
せりたむら

[現在地名]宮田町芹田

遠賀おんが川水系犬鳴いぬなき川支流の有木あるき川下流域に位置する。北西四郎丸しろうまる村、南西長井鶴ながいづる村、南は金丸かなまる(現若宮町)。「せりだ」ともいった。文和二年(一三五三)三月七日、足利義詮は宗像大宮司氏俊に対し「鞍手郡芹田・稲光両村」を宛行っている(「足利義詮袖判下文案」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)三)。文明一〇年(一四七八)「芹田八町六反大地芹田跡」が大内政弘より杉式重に宛行われている(同年九月二五日大内政弘下文「正任記」同年一〇月一九日条)


芹田村
せつだむら

[現在地名]八幡町芹田

橋本はしもと村の西にあり、北は日向につこう川を境に石辻いしず(現遊佐町)。「筆濃余理」に「芹田楯、館主ヲ芹田伊予守ト云リ」とあるが、現在地不明。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高六五〇石余。寛永元年庄内高辻帳では高五〇六石余。享和三年(一八〇三)には家数五一・人数二六二(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧によれば免六ツ四分七厘、家数五〇。幕末期の村絵図(相馬文書)では家数五三、うち水呑七。


芹田村
せりだむら

[現在地名]安塚町芹田

北流する小黒おぐろ川とほお川とが合流した左岸の山麓沿いにある。北は石橋いしばし村、東は小黒川を挟んで和田わだ村、南は小黒こぐろ村、西はヌケの村境を越えるとたに(現浦川原村)に通じる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所此外三方分芹田村 中」とあり、本納一〇石六斗六升・縄高二六石八斗八升四合、家四軒・一二人とあり、小黒川に橋が記される。正保国絵図では高五一石余。天和三年郷帳では高六五石四斗余、うち山高三石二斗九升三合・漆高八斗八升・青苧高三斗六升、反別田三町五反余・畑屋敷二町三反余・山林一五町余・青苧畑四畝で漆木八八本。


芹田村
せりだむら

[現在地名]大和町芹田

一村尾ひとむらお村の東、北は市野江いちのえ村、東は鰕島えびじま新田、南は九日町ここのかまち村。文禄四年(一五九五)七月の藪上庄市ノ江・一村尾検地帳(豊野文書)には当村の一部も含まれる。慶長九年(一六〇四)堀直寄より当村肝煎宛に、村役として百姓六人を給人方に遣わすことなど三ヵ条が申渡されている(新編会津風土記)。正保国絵図に村名があり、高一一七石余。


芹田村
せりだむら

[現在地名]上川村日野川ひのかわ 芹田

常浪とこなみ川を隔てて北東太田おおた村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「芹田 弐百六石三斗三升」とある。元禄四年(一六九一)の本田高は二一八石六斗余で、免三ツ五分五厘(米納三七石七斗余・銀納三九石八斗余)、四新田の高は五石三斗余で、免は各一ツ五分以下である(伊藤郡太氏蔵文書)。元和六年(一六二〇)の漆木役は七三四本八分(津川旧記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android