苅屋村(読み)かりやむら

日本歴史地名大系 「苅屋村」の解説

苅屋村
かりやむら

[現在地名]御津町苅屋

富島とみしま川を挟んで黒崎くろさき村の東に位置し、揖保川の支流もと川の流域に立地する。西にしちようひがしちよう川東かわひがしからなり、仮屋とも書いた。文禄三年(一五九四)六月五日の小出吉政宛の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に仮屋村二九三石余とみえる。なお永禄九年(一五六六)五月の年紀をもつ現姫路市本徳ほんとく寺の梵鐘銘に「願主同仮屋村住三木宗大夫入道慶栄」とみえるが、関連は未詳。慶長国絵図には「かり屋村」と記される。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高六三一石余、高五二二石余。


苅屋村
かりやむら

[現在地名]那賀川町苅屋

工地たくむじ村の西、那賀川河口北方に位置する。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によると、平島ひらじまを船籍地とする船の船頭の一人彦四郎は「かりや」を居住地としていたとみられ、「かりや」は当地に比定される。慶長二年(一五九七)の分限帳には細山(賀島)主水佐知行分として借屋村があり、高五二五石余が同知行分。正保国絵図には苅屋村とみえ、高三〇二石。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方二一八石余・畑方八三石余。


苅屋村
かりやむら

[現在地名]松山市平井町ひらいまち

松山平野の東平坦部に位置する農村。東は平井谷ひらいだに村・北梅本きたうめのもと村、西は畑中はたけなか村・鷹子たかのこ村、南は水泥みどろ村・畑中村、北は平井谷村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「苅屋村 日損所」とある。領分附伊予国村浦記・天保郷帳には「仮屋村」と書かれている。大正五年(一九一六)の「新編温泉郡誌」に、この村は平井谷村から分れ、初め仮屋・狩矢と書いたとある。


苅屋村
かりやむら

[現在地名]常滑市苅屋町・古場こば

東西に細長い地形。東に丘陵地帯、西に西浦にしうら街道と集落があり、北の古場村との境をさかい川が流れる。東は檜原ひばら村、西は伊勢湾に面する。源頼朝にちなむ場所が二つある。一つは村の南にある鷹の井たかのいで、文治六年(一一九〇)頼朝が大御堂おおみどう(現知多郡美浜町)に詣でた時、鷹に水を与えた所といい、今一つは御所嶋ごしよしまで頼朝が休息した所という(雑志)。海岸の一本松城山松しろやままつとよび、室町期鵜飼福元の城跡で「東山殿時代ノ事ナル由」と伝える(雑志、徇行記)

「寛文覚書」によれば、概高五六五石余、田二五町五反余・畑四町三反余、家数五九、人数三〇三。


苅屋村
かりやむら

[現在地名]酒田市豊川とよかわ

星川興屋ほしかわこうや村の北にある。荒瀬川の下流左岸に位置し、地内を井皿いざら溝が西流する。狩屋村とも記した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一一六石余。寛永元年庄内高辻帳の高一一七石余。正保三年(一六四六)に居繰一網鮭四尺二分の代として銀一四匁七分(庄内三郡左沢浮役帳)、貞享四年(一六八七)草刈地の鷹尾たかお山の山札四枚の代として米八升を納めている(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数九・人数五四(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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