苫米地 義三
トマベチ ギゾウ
- 肩書
- 衆院議員,運輸相,内閣官房長官,民主党幹事長,日産化学社長
- 生年月日
- 明治13年12月25日
- 出生地
- 青森県上北郡(現・十和田市)
- 学歴
- 東京高工(現・東京工大)応用化学科〔明治36年〕卒
- 経歴
- 明治36年阿部製紙に入社、のち大阪曹達、大日本人造肥料などを経て、日産化学工業専務、昭和20年社長。全国肥料商業組合理事長、経団連理事なども歴任。戦後は政界に転じ、21年より衆議院当選3回。22年片山内閣の運輸相、民主党幹事長のあと、芦田内閣の国務相・官房長官に就任、“昭電事件”に対処した。24年の民主党分裂時には“野党派民主党”の最高委員長に、また翌年国協党などとの合同で国民民主党が発足するとその委員長となった。26年サンフランシスコ講話条約調任式に日本全権として出席。28年には参議院に鞍替えして全国区から当選、1期務めた。この間、27年の抜き打ち解散を違憲として最高裁に解散無効を提訴、28年の一審では勝訴したが、29年東京高裁判決で敗訴、60年最高裁は上告を棄却した。この訴訟は“苫米地訴訟”の名で有名に。
- 没年月日
- 昭和34年6月29日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
苫米地 義三
トマベチ ギゾウ
大正・昭和期の政治家,実業家 衆院議員;運輸相;内閣官房長官;民主党幹事長;日産化学社長。
- 生年
- 明治13(1880)年12月25日
- 没年
- 昭和34(1959)年6月29日
- 出生地
- 青森県上北郡(現・十和田市)
- 学歴〔年〕
- 東京高工(現・東京工大)応用化学科〔明治36年〕卒
- 経歴
- 明治36年阿部製紙に入社、のち大阪曹達、大日本人造肥料などを経て、日産化学工業専務、昭和20年社長。全国肥料商業組合理事長、経団連理事なども歴任。戦後は政界に転じ、21年より衆議院当選3回。22年片山内閣の運輸相、民主党幹事長のあと、芦田内閣の国務相・官房長官に就任、“昭電事件”に対処した。24年の民主党分裂時には“野党派民主党”の最高委員長に、また翌年国協党などとの合同で国民民主党が発足するとその委員長となった。26年サンフランシスコ講話条約調任式に日本全権として出席。28年には参議院に鞍替えして全国区から当選、1期務めた。この間、27年の抜き打ち解散を違憲として最高裁に解散無効を提訴、28年の一審では勝訴したが、29年東京高裁判決で敗訴、60年最高裁は上告を棄却した(苫米地訴訟)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
苫米地義三
とまべちぎぞう
[生]1880.12.25. 青森
[没]1959.6.29. 東京
政治家,実業家。1903年東京高等工業学校を卒業。肥料,油脂業界で活躍,1940年東北興業副総裁となる。1945年日産化学工業社長。1946年4月,日本進歩党から衆議院議員総選挙に立候補して初当選。1947年民主党結成に参加,片山哲連立内閣の運輸大臣,民主党幹事長を歴任。1948年芦田均内閣の官房長官。1950年民主党野党派と国民協同党が合同して国民民主党を結成すると最高委員長となる。1951年サンフランシスコ講和会議(→対日講和条約)に全権委員として参加。1952年8月の衆議院解散は違憲として提訴したが敗訴。1953年参議院全国区に転じ,1959年政界を引退した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
苫米地義三 とまべち-ぎぞう
1880-1959 大正-昭和時代の経営者,政治家。
明治13年12月25日生まれ。日産化学社長,日本油脂会長などをへて,昭和21年衆議院議員(当選3回,改進党)。片山内閣の運輸相,芦田内閣の国務相兼官房長官。27年吉田首相による衆議院「抜き打ち解散」を違憲として提訴したが敗訴。28年参議院議員。昭和34年6月29日死去。78歳。青森県出身。東京高工(現東京工業大)卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
苫米地 義三 (とまべち ぎぞう)
生年月日:1880年12月25日
大正時代;昭和時代の実業家;政治家。衆議院議員;日産化学社長
1959年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報