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片山哲 かたやま てつ

美術人名辞典の解説

片山哲

社会運動家・政治家弁護士和歌山県生。東大卒。安部磯雄の社会運動に参加し、政治活動を始め、衆議院選で当選。社会民衆党書記長となり、社会大衆党を結成するが離党。戦後日本社会党を結成、同党委員長となり、社会党首班内閣を組閣し、首相となる。総辞職後、憲法擁護国民連合を結成、のち民主社会党を結党し、党最高顧問となる。著に『回顧と展望』等。昭和53年(1978)歿、91才。

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デジタル大辞泉の解説

かたやま‐てつ【片山哲】

[1887~1978]政治家。和歌山の生まれ。大正期からキリスト教的社会主義運動に力を入れ、第二次大戦後は日本社会党書記長・委員長を歴任。昭和22年(1947)に連立内閣の首相となった。→芦田均

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百科事典マイペディアの解説

片山哲【かたやまてつ】

政治家。和歌山県生れ。東大卒。1919年東大キリスト教青年会館で法律相談所を開き,安部磯雄に私淑して社会運動に参加。1926年社会民衆党書記長となる。1946年日本社会党中央執行委員長となり,1947年社会党を中心とする内閣を組織。
→関連項目村山富市

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

片山哲 かたやま-てつ

1887-1978 大正-昭和時代の政治家。
明治20年7月28日生まれ。弁護士となり,日本労働総同盟などの法律顧問をつとめる。社会民衆党の結成に参加。昭和5年衆議院議員(当選10回)。20年社会党結成にくわわり,翌年委員長となる。22年初の社会党首班内閣を組織。のち憲法擁護国民連合を結成。民社党最高顧問。昭和53年5月30日死去。90歳。和歌山県出身。東京帝大卒。著作に「回顧と展望」。

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世界大百科事典 第2版の解説

かたやまてつ【片山哲】

1887‐1978(明治20‐昭和53)
大正・昭和期の弁護士,政治家。和歌山県出身。東京帝大法科大学独法科にすすみ,キリスト教青年会の寮で鈴木文治らと交流。1912年卒業,弁護士となる。20年星島二郎らと中央法律相談所を開設,“法律の民衆化”をめざす。26年社会民衆党結成に参加,書記長に就任,30年の総選挙で衆議院議員に当選。40年反軍演説をした斎藤隆夫の除名に反対して安部磯雄らと社会大衆党を脱党した。戦後日本社会党結成に参加,書記長に就任,46年委員長となる。

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大辞林 第三版の解説

かたやまてつ【片山哲】

1887~1978) 政治家。和歌山県生まれ。東大卒。弁護士から無産政党議員。1946年(昭和21)日本社会党委員長。47年連立内閣の首相となったが、翌年退陣。のち民主社会党の最高顧問。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

片山哲
かたやまてつ

[生]1887.7.28. 和歌山,田辺
[没]1978.5.30. 神奈川,藤沢
政治家。クリスチャン。安部磯雄門下の社会民主主義者。東京大学法学部卒業。弁護士として活躍するかたわら,労働総同盟,日本農民党の顧問としても活躍し,1926年社会民衆党から立候補して代議士となる。 40年戦争政策を衆議院で批判した民政党斎藤隆夫が除名されるや,この除名決議に反対したため党から除名された。 45年 11月に日本社会党を結成し,その書記長となった。 47年5月,日本国憲法による第1回特別国会が召集され,首相に指名され,6月1日,社会,民主,国民協同3党による連立内閣を発足させた。しかし,党内左派との調整がつかず,48年党大会が日本自由党を含めた4党の政策協定の破棄を決定,続いて衆議院予算委員会で補正予算案の組替え動議が可決されたため,2月総辞職。 50年には,党内指導権争いで日本社会党は分裂し,右派の委員長となった。 55年再統一した社会党顧問,のちには民主社会党の顧問となった。その間 54年憲法擁護国民連合を組織,委員長となり,60年脱退,民社党系の憲法擁護新国民会議議長となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

片山哲
かたやまてつ
(1887―1978)

社会民主主義右派の政治家、クリスチャン。明治20年7月28日和歌山県に生まれる。東京帝国大学独法科を卒業し、弁護士となる。1920年(大正9)法律の民衆化を唱えて星島二郎と中央法律相談所を開設、日本労働総同盟、日本農民組合などの法律顧問も務め、無産者の訴訟に尽力した。1926年社会民衆党(委員長安部磯雄(あべいそお))の創立とともに書記長に就任、1930年(昭和5)第2回普通選挙で神奈川県から衆議院議員に当選。1932年社会大衆党結成に参加したが、1940年日中戦争批判の演説をした民政党斎藤隆夫(さいとうたかお)代議士の除名に反対し、社大党から除名された。第二次世界大戦後、日本社会党結成の中心となり書記長に就任(委員長は空席)、1947年(昭和22)社会党首班の三党連立片山内閣を組織し、新憲法下で民主化政策を推進したが、炭鉱国家管理法案が与党民主党などの反対で骨抜きになり、平野力三農相罷免問題から社会党左派が党内野党化し、わずか8か月で総辞職した。1950年社会党委員長を辞任。1955年の左右社会党統一後は党最高顧問となったが、1960年民主社会党結成時に脱党し、民社党の最高顧問となった。また1954年以来憲法擁護国民連合議長を務めていたが、1960年には民社党系の憲法擁護新国民会議を結成し、その議長に就任した。1963年11月の総選挙は民社党公認で立候補したが落選、1965年に民社党を離脱し、政界の一線から退いた。その後も護憲と日中友好に力を尽くしていた。昭和53年5月30日死去、90歳。[宮 章]
『片山哲著『回顧と展望』(1967・福村出版) ▽片山内閣記録刊行会編・刊『片山内閣』(1980)』

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世界大百科事典内の片山哲の言及

【社会民衆党】より

…結党後,左派の門戸開放運動がすすみ地方を中心に左派が党内に進出してくると,総同盟や官業労働総同盟など右派勢力の代表は同党を脱退し,安部磯雄,吉野作造,堀江帰一の呼びかけに応じるというかたちで,同年12月5日に社会民衆党を結成した。その方針は,現実主義,反共主義,合法主義の社会民主主義路線を旗印に,総同盟,官業労働総同盟,全日本農民組合総同盟などを主要基盤とし,委員長に安部磯雄,書記長に片山哲(1930年から赤松克麿)が就任した。同党は28年の初の普選による総選挙で片山,鈴木文治,西尾末広,亀井貫一郎を,30年選挙で西尾,片山を,32年選挙で安部,亀井,小池四郎を当選させ,組織的には左派や中間派無産政党に比較して安定していた。…

【自由法曹団】より

…民衆運動弾圧事件の犠牲者への積極的な弁護・支援活動にあたってきた弁護士の団体。神戸の川崎・三菱神戸造船所争議の調査を契機に,1921年山崎今朝弥,布施辰治,上村進,片山哲ら数十名によって結成され,亀戸事件や多数の労働争議・小作争議に関与した。26年の無産政党分裂で団の統一的活動が困難となり,さらに三・一五事件等の公判方針をめぐり左翼弁護士間の統一も崩れたが,個人の団を自称した活動が行われた。…

【日農】より

…27年秋の県議選と翌28年2月の衆議院選の共闘をふまえ,また28年の三・一五事件で弾圧をうける中で再び統一の気運が高まり,同年5月全日農と合同して全国農民組合(全農)を創設した。(2)1930年代の右派農民組合 31年1月,社会民衆党支持の日本農民組合総同盟と全日本農民組合(会長平野力三)とが合同して結成された(会長片山哲)。しかし,翌年4月の社会民衆党の分裂により,旧日本農民組合総同盟系の一部が脱退した。…

※「片山哲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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