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1945年(昭和20)11月16日、旧大日本政治会を母体に結成された保守政党。総裁は町田忠治(ちゅうじ)。「国体護持」を綱領に掲げ、結党宣言でも「共産主義の排撃」をうたうなど保守の最右翼に位置し、旧議会勢力の牙城(がじょう)として幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の与党的存在を担った。1946年1月の公職追放の結果、町田総裁をはじめ幹部の大半が追放の対象となって打撃を受けたが、1946年4月の総選挙で94議席を確保、幣原喜重郎新総裁のもとで第一次吉田茂内閣に4閣僚を送った。1947年2月日本自由党との合同交渉が決裂すると一転して保守新党の結成を決め、同年3月31日に解党し、日本自由党反吉田派、国民協同党と合流して民主党を結成した。
[吉田健二]
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第2次大戦後の政党。旧立憲民政党系の町田忠治派および旧立憲政友会系の中島知久平派を母体に,1945年(昭和20)11月に結成。総裁町田,幹事長鶴見祐輔。綱領に議会中心の責任政治の確立,国体の擁護などを掲げた。翌年1月同党所属の衆議院議員274人中,町田・鶴見を含む260人が公職追放となって大打撃をうけ,4月の総選挙では93人に後退。幣原喜重郎を総裁に,自由党と社会党の中間路線をねらったが党内は安定せず,日本自由党との保守合同も自由党側の反対で実現しなかった。47年の総選挙が迫ると,危機感から3月に日本自由党の芦田派・国民協同党の一部とともに民主党を結成した。
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…しかし次の42年4月のいわゆる翼賛選挙では,非推薦にもかかわらず兵庫5区から最高点で当選,議席を回復。第2次大戦後は46年11月の日本進歩党結成に参加,翌年幹部のほとんどが公職追放されたため一時は進歩党を代表する立場に立ち,第1次吉田茂内閣には国務大臣として入閣。47年3月の日本民主党の結党にあたっては最高委員の一人となり,片山哲内閣でも国務大臣として入閣している。…
…【宇野 俊一】(2)大日本政治会に結集し,翼賛体制を担っていた議員たちの主力が,第2次大戦直後の社会状況における保守安定勢力の形成を意図して1945年11月16日に結党した政党。正式名は日本進歩党。所属議員は274名。…
※「日本進歩党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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