第2次大戦直後に出現した修正資本主義を指導理念とする中道主義の政党。1947年3月,協同民主党と国民党が合同して結成された。おもな役員は書記長三木武夫,中央常任委員会議長岡田勢一,副書記長早川崇,政務調査会長船田享二らであり,〈協同主義によって日本経済を再建する〉ことが綱領としてうたわれた。〈資本と労働の協同することが生産増強の条件〉であるとの考えも示されている(第3回大会宣言)。発足当初,衆参両院で70名台の議員数であったが,その後,30名台に定着,片山哲内閣には逓信大臣(三木武夫),国務大臣(笹森順造)を送り,芦田均内閣には運輸大臣(岡田勢一),国務大臣(船田享二)を送って与党の地位を固めた。中央委員長となった三木武夫は,中央政治連盟の構想を発表,保守派の右と社会党の左の対決を避ける中道政治路線を提唱したことがある。50年4月民主党野党派と結合し,国民民主党(1952年,新政クラブ,農民協同党と合同し改進党となる)を結成した。
執筆者:高橋 彦博
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1947年(昭和22)3月8日、協同民主党と国民党が合同して結成した中道派の政党。人道主義、協同主義を綱領に掲げ、官営事業の民営化、生鮮食料品の統制撤廃、農山漁村の近代化を目ざした。常任委員会議長岡田勢一、書記長三木武夫(たけお)。結党時に78名の議員を擁し、同年4月の総選挙では一気に31名の小政党に転落したが、選挙後は民主党とともに片山・芦田(あしだ)両連立内閣に参画、それぞれ2名を閣僚として送った。芦田内閣総辞職後は野党に回り、中道勢力の再結集を試みたが、立党精神のあいまいさもあって1949年1月の総選挙では議席を14名に減らし、翌1950年4月民主党と合同して国民民主党となった。
[吉田健二]
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国民党と協同民主党が合同して1947年(昭和22)3月8日に結成された政党。委員長空席のまま書記長に三木武夫が就任。結成時には78議席を擁し,協同主義・階級協調・農山漁村の近代化をかかげ,中道勢力の結集をはかったが,同年4月の衆議院選挙では当選者は31人にとどまった。片山哲内閣に,社会党・民主党とともに与党となり三木ら2人が入閣。その後党勢はふるわず,50年4月に解散して民主党野党派・新政治協議会とともに国民民主党を結成した。のちの自由民主党三木派の源流となる。
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