草間彌生(読み)くさまやよい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「草間彌生」の意味・わかりやすい解説

草間彌生
くさまやよい
(1929― )

美術家。長野県生まれ。県立松本第一高等女学校在学中から絵を描き始める。女学校入学のころから物体の回りにオーラが見え、動植物の会話が聞こえるという幻覚体験が始まり、それを絵画として制作する。1948年(昭和23)に京都市立美術高等学校に編入し、翌1949年卒業。1950年に日本画作品『猫』が長野県美術展に入選して以後水彩グワッシュ油彩などを使用して発表を開始した。すでにこのころから作品には、粒子状の点の連なりや、細胞や神経が網目状に拡張していくイメージが現れ、その後の草間の表現の核が見いだせる。1950年代初期の作品の、シュルレアリスティックな自動デッサンと抽象画が合体したような作風に、微細な線による無限連鎖の網目図像の全面化が少しずつ加わる。草間は、その幻覚をカンバスに微細に描き込んだり、突起物のついたオブジェや鏡に覆われた部屋を利用するインスタレーションに結びつけていった。

 1955年に、滝口修造による企画・選定の個展タケミヤ画廊、東京)が催され、また同年の国際水彩画ビエンナーレ(ブルックリン美術館、ニューヨーク)に出品。1957年にアメリカでの初個展を開催(ズウ・ドゥザンヌ画廊、シアトル)。個展終了後ニューヨークに移動し、美術学校アート・スチューデンツ・リーグやブルックリン美術学校などに学ぶ。このころ、網目無限反復の画像をモノクロームで描くようになり、その成果は、1959年のニューヨークでの初個展「オブセッショナル・モノクローム」(ブラタ・ギャラリー)で披露され、大きな反響を呼ぶ。1961年にはソフト・スカルプチャー(布やビニールなど柔らかい素材を使った立体作品)に手を染め、1962年のグループ展ではアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグ、ジョージ・シーガルらとともに作品を発表した。1963年、アメリカ合衆国の永住権を取得。1965年ごろにハプニングを始め、個展・グループ展をさかんに行う。1966年ベネチア・ビエンナーレに参加し、1500個のミラーボール敷き詰めた『ナルシスの庭』を出品。ベトナム戦争が激化した1960年代末は、反戦を訴える裸体のハプニングをニューヨークなどで何度か行い、警察に拘束されたりした。1973年帰国し、国内外の展覧会に多数参加する。

 著書には自伝小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(1978)、『聖マルクス教会炎上』(1985)、『ウッドストック陰茎斬り』(1988)、『クリストファー男娼窟』(1989)などがある。

[高島直之]

 2016年(平成28)に文化勲章受章。

[編集部 2018年11月19日]

『『聖マルクス教会炎上』(1985・Parco出版局)』『『ウッドストック陰茎斬り』(1988・ペヨトル工房)』『『クリストファー男娼窟』(1989・而立書房)』『『マンハッタン自殺未遂常習犯』(角川文庫)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「草間彌生」の解説

草間彌生 くさま-やよい

1929- 昭和後期-平成時代の美術家。
昭和4年3月22日生まれ。昭和32年渡米。アート・スチューデンツ-リーグにまなぶ。ポップアートや環境・前衛芸術の世界でニューヨークを拠点に活躍。48年帰国後小説も手がけ,58年「クリストファー男娼窟」で野性時代新人文学賞。平成12年「草間弥生ニューヨーク/東京」展で芸術選奨。15年フランス芸術文化勲章オフィシエ受章。18年高松宮殿下記念世界文化賞。21年文化功労者。26年安吾賞。長野県出身。京都市立美術工芸学校卒。作品に「最後の晩餐」「無限の網」,著作に「I LIKE MYSELF―わたし大好き」など。

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