幻覚は〈対象なき知覚〉ともいわれ,外部から刺激がないのに,声を聞いたり,物が見えたり,におったり,味がしたり,さわられたと体験することである。正常人でも寝入りばな(入眠時),さめぎわ(出眠時)には幻覚を体験することがある。外部からの刺激を誤って知覚するときは錯覚といい,幻覚と区別している。幻覚は知覚の種類にしたがって幻聴,幻視,幻触,幻臭(嗅),幻味,体感幻覚などに分けられている。
幻聴は主として人の声が多く,自分に対する悪口,批判,命令の内容で,音が聞こえることはすくない。幻視は人物,動物,風景が多く,幻触はだれかが自分の身体に触れたり,いたずらしたり,虫などがいると訴えるもの,幻臭は周囲からの異臭,不快臭を感じたり,自分の身体から不快臭が出ているというもの,幻味は不快な味を感ずるものである。幻味や幻臭は被毒妄想に結びつくことが多い。体感幻覚は身体の奇妙な異常感として訴えられる。幻覚に対する確信は患者によってまちまちで,ある程度その異常性を自覚していることもあるが(脳幹性幻覚のような脳の部分的障害による幻覚),多くは幻覚を実在のものと確信している。幻聴の際に,声をきくが頭の中に感ずるだけという場合には,外部からはっきりと声をきくもの(真性幻覚)に対し偽幻覚と呼んでいる。
幻聴は統合失調症,アルコール依存症(幻覚症),覚醒剤中毒に多くみられ,幻視はアルコール依存症をはじめとする中毒性精神病,症状精神病など意識障害の認められる際に多く,幻触は統合失調症,中毒性精神病(コカイン中毒),症状精神病に,幻臭は中毒性精神病,症状精神病,統合失調症,てんかん発作,自己臭恐怖者に,幻味は中毒性精神病,統合失調症,てんかん発作に,体感幻覚は体感異常症,うつ病,統合失調症にみられる。そのほか,五感器の中枢経路の障害でも幻覚があらわれるが,多くは要素性のものである。また外傷などで四肢が急速に切断されたあとに,手足がなお存在しているように感じるものは,幻影肢という名で知られている。なお以上のような分類のほかに,次のような幻覚の分類もある。機能性幻覚とは,一定の刺激が持続している間だけ幻覚が認められるもの(たとえば水道の音が聞こえている間だけ幻聴があるように)で,反射性幻覚とは,一定の刺激があると反射的に幻覚があらわれるものである。
→錯覚
執筆者:保崎 秀夫
人類学者ウォーレスA.F.C.Wallaceは幻覚を定義して〈擬似知覚pseudo-perception〉であるとし,夢や催眠的心像もこれに含めている。幻覚は世界各地の民俗慣行とくに民俗宗教において重要な意味をもつ。幻や夢は,神霊,死霊,祖霊など霊的存在を含む〈他者〉との直接接触・交流の回路であり,媒体であるとされるからである。人類学者ブールギニョンE.Bourguignonは幻覚を〈トランス〉の類似概念であるとし,トランスにおいて自己の外界に対象を知覚・認識するのが幻覚であり,同じトランスにおいてであっても,対象が自己に憑入(ひようにゆう)し,対象と自己が同一化するのが〈憑霊〉であるとして,両者を区別している。幻覚は各地のシャーマン(予言者,見者など)のイニシエーションおよび儀礼において,シャーマンが霊的存在や霊界と直接接触・交流する際の不可欠の条件である。彼らはトランスや夢の中にあらわれる神霊や死霊を直接目にし,言葉を交わし,お告げを伝えるなどして役割をはたす。幻覚はアニミズムやシャマニズムにおいて,とりわけ重要な意味と役割をもつ。
執筆者:佐々木 宏幹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
19世紀に完成された精神医学における錯覚および幻覚の定義は、対象を誤って知覚する場合を錯覚というのに対して、幻覚は、対象なくして知覚する場合をいう。したがって幻覚の分類は、知覚心理学における知覚の分類に倣って記述された。臨床精神医学における重要度に従って記述すると、幻聴、幻視、幻嗅(げんきゅう)(幻臭)、幻味、体感幻覚、幻触などである。これらのうち、二つ以上の異なる幻覚が同時に体験される場合、たとえば幽霊が幻視され、そのことばが幻聴されるとき、これを共同幻覚とよぶことがある。
次に、精神医学的あるいは神経病理学的異常状態にみられる幻覚の諸様態について述べる。
(1)脳脚幻覚症 脳底部損傷、たとえば腫瘍(しゅよう)が生じたときに出現する幻視で、フランス学派が幻覚症hallucinoseというのは、その幻覚体験が異常であることを病者が自覚している場合をいう。
(2)半眠時幻覚 入眠時または覚醒(かくせい)前に正常人でも体験することがある。
(3)夢幻様状態 色彩豊かな物語的風景、たとえば世界没落、世界再生、神秘的・宗教的な幻視など。
(4)意識障害がさらに深刻になった場合、すなわち追跡妄想と結び付いた幻聴体験(ドイツ学派のいわゆる幻覚症Halluzinose) 譫妄(せんぼう)状態に伴う錯乱した幻視体験など。
(5)メスカリン、ハシシュ、LSDなど幻覚剤とよばれる薬物の服用に伴う幻覚、とりわけ幻視の体験。
(6)統合失調症(精神分裂病)およびその他の精神病にみられる幻覚 これは大脳病理ないし意識障害を欠いていることが特徴的であり、臨床精神医学ないし精神病理学の見地からはもっとも重要である。
統合失調症にみられる幻覚でもっとも頻発するものは幻聴であり、幻嗅、幻味、体感幻覚などがこれに続く。しかも、これらの幻覚は互いに関係しあっている。たとえばフランスのギローは、すべての統合失調症による幻覚を警戒本能に基づくと述べている。さらに統合失調症の幻覚体験は、妄想と密接に関連しあっており、しばしば幻覚と妄想は区別しがたい。たとえば他者が語りかけてくる幻聴体験は、他者が伝達してくる思考伝達と区別しがたく、さらには他者がしかじかのことを考えることを強制してくる作為思考と関連しあう。統合失調症においてなぜ幻聴が頻発し幻視が少ないのか、という議論が19世紀以来なされてきたが、以上の見地からすると、統合失調症による幻聴の特徴は対象なき知覚という幻覚性に存するのではなく、他者が一方的にことばを浴びせかけてくるという対人状況である。ツットJ. Zuttはこの見地から、統合失調症による幻聴に対応する視覚体験は、幻視ではなくて他者が一方的に浴びせかけてくる「まなざし体験」であると考えた。
なお、珍しい幻視体験例をあげると、自己像幻視は鏡に見る自己像ばかりでなく、数年から数十年後の自己像を幻視する場合もある。また視野の外を幻視する域外幻視は、しばしば背後のもの、たとえば仰臥(ぎょうが)した患者がベッドの下や床の下に数匹の白蛇を幻視する。
[荻野恒一]
特殊なキノコ、サボテンその他幻覚性植物を服用して幻覚を求める習慣がアメリカ大陸先住民の一部にみられるが、これは宗教的体験に結び付いている。
メキシコ北部の先住民ウィチョルHuicholのシャーマンは、ペヨーテpeyoteと称するサボテン(ウバタマサボテン)を食べ、幻覚を伴う宗教体験を求め、南アメリカ先住民のシャーマンは神がかりになるためにタバコやダトゥラ(チョウセンアサガオ属の植物)などを服用することがよくある。コロンビアのアマゾン流域とオリノコ平野に住む先住民は、ヤヘと称するアルカロイド性幻覚植物を、成人式、葬式、祭儀などのときに服用し、シャーマンの病気治療の儀礼にもこれを用いる。この植物は数時間煮てから服用したり、水の中に浸してつぶした汁を服用することもある。南アメリカの先住民トゥカノTukanoの人々は、この植物の汁を飲むのは、万物の源である「子宮」に戻るためであるという。この植物による幻覚を通じて、人々は万物の創造における世界と一体となると信じている。彼らはこの体験を「幻覚」とはみず、実際に宇宙の根源をみたと感ずることにより、宗教の真理を確信するという。
[吉田禎吾]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…外界からの感覚刺激がすべて遮断されると,意識の活動が障害され,注意力や思考力の減退,無気力,時空間の認知障害や夢幻様の体験が起きる。さらに幻覚をも生ずる。幻覚としては幻視が多いが,幻聴やからだの浮遊感や無形感などの身体幻覚もみられる。…
…幻覚が前景に出ている病的な精神状態。慢性アルコール中毒などの際に,幻聴がはげしく,それに伴って妄想がみられるような場合をアルコール幻覚症とよんでいる。…
…軽度の意識混濁を背景に,活発な錯覚や幻覚などの陽性症状を示す最も代表的な意識変容の形。外界は夢のように変容し,周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され,さらに恐怖の,ときには楽しい場面の情景的な幻覚がつぎつぎに不連続的に現れる。…
※「幻覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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