菖蒲沢村(読み)しようぶざわむら

日本歴史地名大系 「菖蒲沢村」の解説

菖蒲沢村
しようぶざわむら

[現在地名]原村菖蒲沢

現原村の南部に位置し、北部を八ヶ岳山麓俎原まないたつぱらを源とする阿久あきゆう川が、南部を阿弥陀あみだ岳を源とするくち川が西流している。西は大池おおいけ新田村(現茅野ちの市)に隣接する。

当村は中新田なかしんでん村と同様に原山地籍に開発された新田村で、開発年代は慶安二年(一六四九)で、見立役人は山中志津摩、草分人は万右エ門(諏訪史)。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数弐拾五軒 高九拾七石五合壱勺」とあり、天保五年(一八三四)の信濃国郷帳には高一二〇・四五一石とある。

菖蒲沢村
しようぶざわむら

[現在地名]藤沢市菖蒲沢

引地ひきじ川と目久尻めくじり川との間の台地上に位置し、東北は葛原くずはら村、南は石川いしかわ村・遠藤えんどう村。村内を大山道・厚木道(ほしのや道)が通る。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)にみえる「葛原之郷并しやうふ」の「しやうふ」が当地に比定される。

天正一八年旗本木村領となる。検地は寛文一二年(一六七二)木村吉房が実施。嘉永三年(一八五〇)一二月の藤沢宿助郷帳(藤沢市史二)によると定助郷村の困窮により、六〇石が代助郷として翌年から一〇ヵ年間課せられた。

菖蒲沢村
しようぶざわむら

[現在地名]双葉町菖蒲沢

かやヶ岳山麓南端に近い丘陵地に位置する。永禄六年(一五六三)と思われる亥七月六日の武田家印判状写(竜王村誌)に「菖蒲沢」とみえ、当年洪水に対し、当地のほか大垈おおぬた団子新居だんごあらいなど計九ヵ村が、郷中人足によって川除普請を行うことを言渡されている。慶長七年(一六〇二)検地帳(県立図書館蔵)では田はなく上畑一町余・中畑一町四反余・下畑一町一反余・下々畑一町一反余、屋敷一反余。慶長古高帳では高三七石余、幕府領。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高一一一石余、下々田一町五反余、上畑五反余・中畑一町四反余・下畑三町三反余・下々畑一〇町七反余・山畑三町八反余、屋敷六反余。

菖蒲沢村
しようぶざわむら

[現在地名]生野町円山 菖蒲沢

円山まるやま村の西に位置し、いち川支流の栃原とちはら川が流れる。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「円山新田」とみえる。元禄郷帳に「菖蒲沢村」とあり、古くは円山新田と記される。文政一三年(一八三〇)の家数二〇・人数五九(生野史)。嘉永六年(一八五三)森垣もりがい村の竜野屋石川伊兵衛が当地の別邸に生野代官をはじめ銀山関連の諸士を招いて園遊会を催している(「石川日記」生野史)

菖蒲沢村
しようぶざわむら

[現在地名]八郷町菖蒲沢

小桜こざくら川左岸にあり、東はつじ村、西は小野越おのごえ村。江戸初期に下総関宿藩領となり(寛文朱印留)、のち旗本領となる。元禄郷帳の村高は一八七石余、幕末は旗本小菅氏領一八七石余、東光とうこう寺除地二石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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