日本歴史地名大系 「萩原宿」の解説 萩原宿はぎわらじゆく 岐阜県:益田郡萩原町萩原町村萩原宿[現在地名]萩原町萩原小坂(おさか)宿(現小坂町)より三里、下呂(げろ)宿(現下呂町)まで二里にある飛騨街道の馬継場。南北に通る街道の両側の東町・西町に家が並ぶ。古代からの官道飛騨支路は萩原を通らず上(いわ)村から北東の桜洞(さくらぼら)へ向かい桜(さくら)谷上流を越えて上呂(じようろ)に至っていたとみられ、街道沿いの町並の成立は天正一四年(一五八六)の諏訪城築城以降であろう。天和三年(一六八三)の駄賃定(今井文書)によれば小坂までは荷物一駄一七二文・から尻一疋一一六文・乗物一挺三四八文・長持一竿一七二文・人足一人六三文、下呂までは荷物一駄一一六文・から尻一疋七五文・乗物一挺二三二文・長持一竿一一六文・人足一人四二文と定められ、夜通りの時は割増となっていた。 萩原宿はぎわらしゆく 愛知県:一宮市萩原村萩原宿[現在地名]一宮市萩原町萩原美濃路七ヶ宿のなかの一宿で、下りは稲葉(いなば)宿(現稲沢市)へ、上りは起(おこし)宿(現尾西市)へ向かう宿駅。市域西南部の中心的集落をなしている。「尾張志」は、「稲葉より一里余の馬継にて町屋つゞけり、天正の頃まてハ荒野にて荒古(あらこ)北方西之川などいひし地なりしを長尾武蔵守吉房入道屋敷を取建られしより萩原西之川村と呼しとぞ」と記す。萩原村の概高が五一石余と村高が少ないため、寛永一一年(一六三四)伝馬不足を訴えて、串作(くしつくり)村五三〇石余を加宿に加えて宿役を負担した。幕府へは宿高一千七九石余、うち三八〇石は串作村の加宿として報告したという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by