中国の軍人、政治家。広東(カントン)省梅県の客家(ハッカ)の出身。1919年雲南の講武学堂卒業、1924年黄埔(こうほ)軍官学校教官、1926年中国共産党入党。1927年広東コミューン(広州コミューン)に参加し失敗、モスクワの中山大学に留学し、1931年帰国。江西ソビエト区に入って紅軍第三軍団(軍団長は彭徳懐(ほうとくかい))参謀長、紅軍学校長、ついで第一方面軍参謀長。長征に参加して陝北(せんほく)に移り、西安(せいあん)事件のあと紅軍西安弁事処主任となる。日中戦争に際して八路軍参謀長、1945年党中央委員、1949年北京(ペキン)解放とともに市長、のち華南軍区司令兼広州市長。1955年元帥。1956年党政治局員、1965年中央軍事委員会副主席。1971年林彪(りんぴょう)失脚後、国防相代行。1973年政治局常務委員、1975年国防相、党副主席となる。1976年華国鋒(かこくほう)政権の誕生を助け、1977年党第一副主席。1978年全国人民代表大会常務委員長。1982年政治局常務委員、党軍事委員会副主席。1983年国家軍事委員会副主席を兼ね、軍事面・政治面での最高指導者の一人となったが、1985年すべての職務から引退した。
[安藤彦太郎]
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1897~1986
中国現代の軍人,政治家。広東省梅県の人。1927年に中国共産党に入党。広東革命政府軍の一員として北伐に参加。広州コミューンを指揮した。日中戦争中は八路軍参謀長を務めた。内戦が始まると解放軍参謀長として戦争を遂行した。中華人民共和国では広東省人民政府主席兼広東市長として広い広東人脈を形成した。55年元帥。文化大革命期には第一戦を退くも,71年の林彪(りんぴょう)事件で復活。76年の四人組逮捕では中心人物となり,以後,華国鋒(かこくほう)政権の後見人としての影響力を持った。
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