彭徳懐(読み)ほうとくかい

精選版 日本国語大辞典 「彭徳懐」の意味・読み・例文・類語

ほう‐とくかい ハウトククヮイ【彭徳懐】

中国の軍人共産党員湖南省の生まれ。抗日戦では八路軍総指揮として日本軍と戦う。朝鮮戦争では中国義勇軍司令として参戦。副首相、国防相に任命されるが、毛沢東の大躍進政策に反対して失脚死後の一九七八年に名誉回復。ポン=トーホワイ。(一八九八‐一九七四

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デジタル大辞泉 「彭徳懐」の意味・読み・例文・類語

ほう‐とくかい〔ハウトククワイ〕【彭徳懐】

[1898~1974]中国の軍人。湖南湘潭しょうたん県の人。1928年共産党に入党、紅軍に参加し、抗日戦では八路軍副総司令。朝鮮戦争では中国人民義勇軍総司令を務めた。国務院副総理・国防相などの職にあったが、毛沢東の批判を受けて1965年解任された。1978年、名誉回復。ポン=トーホアイ

ポン‐トーホアイ【彭徳懐】

ほうとくかい(彭徳懐)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「彭徳懐」の意味・わかりやすい解説

彭徳懐
ほうとくかい / ポントーホワイ
(1898―1974)

中国の軍人。湖南(こなん)省湘潭(しょうたん)県生まれ。1923年湖南軍官講武堂卒業。地方軍分隊長から北伐軍連隊長になる。1928年中国共産党に入党。湖南省平江で反乱を指導し、革命根拠地樹立。紅五軍長となる。江西(こうせい)省井岡山(せいこうざん)に行き紅四軍(軍長、朱徳(しゅとく)。党代表、毛沢東(もうたくとう))と合流。1930年三軍団長として李立三(りりっさん)路線に沿って9日間にわたって長沙(ちょうさ)を占領。毛の命令により第2回長沙作戦を中止した後、朱徳、毛沢東の一軍団と合流し、一方面軍を形成。瑞金(ずいきん)周辺に中央根拠地を築き、蒋介石(しょうかいせき)の討伐に抵抗。この時期、毛を支持して主流の王明(おうめい)に反対したが、毛の伝統的ゲリラ戦術に対しては軍の近代化を考えていた。1934年春コミンテルン軍事代表に剛直さを批判され軍事委員会副主席を退くが、同年10月長征に参加。1935年遵義(じゅんぎ)会議に三軍団長として出席。陝甘(せんかん)支隊司令として一方面軍を率いて延安(えんあん)地区へ赴く。1936年秋まで一方面軍司令。抗日戦開始後の1937年八路軍総指揮。1940年「百団大戦」作戦を敢行、日本軍を驚かす。1945年党中央委員。1947年国共内戦で毛のもと延安奪回を指導。1949年一野戦軍司令。同年10月北京(ペキン)で軍事委副主席。1950年朝鮮戦争に義勇軍司令として参加。1954年政治局員、副首相、国防相。1955年軍の階級制を実施して、元帥。1957年訪ソ。1959年廬山(ろざん)会議で「大躍進」・人民公社反対の意見書を毛に提出し、国防相を解任される。1965年三線建設(奥地の国防建設計画)副総指揮で成都(せいと)に赴く。同年11月、呉晗(ごがん)作の『海瑞(かいずい)罷官』が歴史上の人物に託して彭の名誉回復を図ったものとして姚文元(ようぶんげん)の批判を受け、これが「文化大革命」の発端となる。1966年末反毛・大軍閥として北京郊外に監禁され、1974年死去。1978年名誉回復。1982年には1962年に書かれた『彭徳懐手記』が発表された。

[高市恵之助・渋谷 司]

『田島淳訳『彭徳懐自述――中国革命とともに』(1984・サイマル出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「彭徳懐」の意味・わかりやすい解説

彭徳懐 (ほうとくかい)
Péng Dé huái
生没年:1898-1974

中国の軍人,政治家。湖南省湘潭の出身。湖南軍官学校卒。国民革命軍に入り連隊長となったが,1928年6月湖南省平江で起義し,同年12月井岡山で朱徳,毛沢東と合流。29年第5軍長となり,湖南・江西省境で活動,30年7月には湖南省都長沙を占領した。31-34年にわたる蔣介石の5次の包囲討伐作戦では,第3軍団長として活躍。長征の途中,毛沢東らが張国燾(ちようこくとう)らと別れて北上した際には北上部隊総指揮となる。37年国共再合作となると八路軍副総司令となり,山西省東南部の司令部にあって,延安にいる朱徳に代わって事実上の総司令となり,40年の百団大戦も指揮した。第2次国共内戦では西北解放軍司令,第1野戦軍司令となり,50年からは中国人民義勇軍を指揮して朝鮮戦争に参加した。54年副首相兼国防相となると,朝鮮戦争の経験から軍の近代化に努め,55年義務兵役制,元帥以下の階級制を実施した。この際,解放軍10元帥の一人となる。59年廬山の政治局拡大会議で張聞天,黄克誠らと大躍進政策を〈小ブルジョア的熱狂〉と批判して,毛沢東の怒りを買い失脚した。この裏には人民公社化とともに民兵を大々的に強化して人民戦争戦略をとろうとする毛沢東への抵抗があった。文化大革命の導火線となった呉晗の〈海瑞(かいずい)罷官〉批判は,呉晗が明代の清官海瑞に託して彭徳懐の名誉回復をはかったものであった。文革開始以後,非難迫害の強まるなかに死亡したが,四人組失脚以後は名誉回復された。短気だが率直誠実な人柄で,朱徳に次ぐ解放軍将領として人望が高かった。
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百科事典マイペディア 「彭徳懐」の意味・わかりやすい解説

彭徳懐【ほうとくかい】

中国の軍人。湖南省の人。1928年共産党に入党。平江暴動を起こし湖南ソビエト政府を樹立。1929年毛沢東・朱徳の紅軍に合流し,長征で第1軍団先鋒隊を指揮。抗日戦中は八路軍副総司令。解放後,朝鮮戦争で人民義勇軍司令として活躍。のち国務院副総理・国防部長の要職についたが,1959年大躍進を批判し国防部長を解任され,失脚。1978年名誉回復。
→関連項目林彪

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「彭徳懐」の意味・わかりやすい解説

彭徳懐
ほうとくかい
Peng De-huai

[生]光緒26(1900).湖南,湘潭
[没]1974.11.29. 北京
中国の軍人,政治家。国民党軍の旅長であったが,1928年湖南の平江暴動を起して紅軍に参加,紅軍第5軍長となった。 30年長沙を占領し,紅軍第1方面軍総司令として長征に参加。 37年日中戦争勃発後,八路軍副総司令となり,45年共産党の第7期中央委員,46年以降西北人民解放軍 (のち第1野戦軍) 司令。朝鮮戦争の際は人民志願軍司令をつとめ,54年以降,国務院副総理,国防委員会副主席,国防部長,党中央政治局委員の要職を兼務し,55年元帥となり,朱徳に次ぐ人民解放軍長老の地位にあった。朝鮮戦争の経験から軍の近代化を推進し,義務兵役制,軍階級制度を実施した。ソ連の核戦略に依存して中国の独自の核武装化に反対し,毛沢東の軍事路線と対立したといわれ,また 59年8月の党8期八中全会 (廬山会議) でも毛沢東の 58年以来の大躍進,人民公社化政策を正面から批判して鋭く対立,事実上失脚した。 65年復活したが,文化大革命初期に再度迫害を受け,74年 11月病死。 78年 11期三中全会で名誉回復。『彭徳懐自伝』が出版された。

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世界大百科事典(旧版)内の彭徳懐の言及

【紅軍】より

…李立三,周恩来が指導する党中央も各地に人を派遣して紅軍の建設発展に努めた。30年には毛沢東,朱徳,彭徳懐が指導する中央根拠地(江西を中心に湖南,福建,広東,浙江各省にまたがる)のほか張国燾(ちようこくとう),徐向前指揮下の鄂予皖辺区(湖北,河南,安徽),賀竜,周逸群(のちに関向応)指導下の湘鄂西辺区(湖南,湖北西部)などの根拠地が建設され,30年8月には彭徳懐軍が一時長沙を占領した。情勢重大とみた蔣介石は30年末から34年までに5回にわたる包囲討伐作戦をおこなった。…

【中華人民共和国】より

…組織化を急ぎすぎた人民公社は,杜撰(ずさん)な管理や命令主義のため,生産意欲が極度に低下した。こうした失政を批判した彭徳懐(ほうとくかい)は,毛沢東によって反党分子とされ,国防部長の地位を追われるが(1959年8月,廬山会議),現実は,政治決議によって変えることはできない。くわえて,59年からは3年連続の記録的な自然災害に見舞われ,そこへ,中ソ対立によるソ連の技術援助全面打ち切り(1960年7月)が追打ちをかけ,ついに大量の餓死者(1000万人以上と推定する説もある)を出すにいたった。…

【中国人民解放軍】より

… こうした〈人民の軍隊〉の伝統をもち,毛沢東の人民戦争戦略で指導される解放軍をいかに近代的国防軍に脱皮させるかについては,建国以来二つの路線の対立がある。彭徳懐は近代的国防軍建設をめざして,1955年階級制,義務兵役制を実施したが,毛沢東,林彪の〈人民の軍隊〉の主張に敗れ,59年失脚,階級制は65年廃止された。鄧小平体制となってからは,〈四つの現代化〉の一つとして国防の現代化が強調され,階級制も復活した。…

【中国人民義勇軍】より

…抗米援朝のために組織された軍隊。彭徳懐が指揮した。1950年6月朝鮮戦争が始まり,初め優勢であった朝鮮民主主義人民共和国軍は9月米軍の仁川上陸作戦で形勢逆転し,国連軍は10月8日,38度線を越え北上,20日には平壌を占領した。…

【廬山会議】より

…開催地の江西省の廬山にちなむ。同会議は1958年の生産統計を大幅に下方修正したこと,ひき続き大躍進政策を継続することを決定したことのほかに,国防大臣彭徳懐(ほうとくかい)ほかを反党グループとして解任した。彭徳懐解任の意義は2点にある。…

※「彭徳懐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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