中国の政治家。山西(さんせい)省交城県出身。1937年県職業訓練学校当時、中国共産党に加入。県党委員会書記として抗日遊撃戦に参加。1949年人民解放軍とともに湖南(こなん)省に南下。1950年毛沢東(もうたくとう)の知遇を得、1955年同省内の水利事業で成果をあげ、毛に評価される。同省文革派主流として、1969年第9回党大会で中央委員に選出された。1970年各省の先頭を切って再建された同省党委員会の第一書記となり、省革命委員会主任代理も兼任した。1971年北京(ペキン)で国務院の中央政務につき、当時の林彪(りんぴょう)事件の糾明にあたった。1973年党中央政治局委員、1975年副首相兼公安相。1976年1月周恩来(しゅうおんらい)死後首相代行を務め、同年4月の第一次天安門事件直後に党第一副主席兼首相に昇進。1976年9月毛沢東死後、翌10月「四人組」逮捕に活躍、党主席と中央軍事委員会主席を兼任し、中国の最高ポストについた。1976年末第2回大寨(だいさい)会議で演説。1980年(昭和55)5月と7月に来日。1977年の経済大躍進の失敗と毛沢東崇拝ゆきすぎのかどで1980年9月首相を辞任。1981年党六中総会で副主席(党内序列6位)に下る。1982年12回党大会ではただの中央委員にとどまり、2002年に退任。
[高市恵之助・渋谷 司 2019年4月16日]
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1921~2008
中国現代の政治家。山西省交城の人。1976年1月周恩来の死去により首相代行に抜擢,4月の天安門事件で鄧小平(とうしょうへい)が再び失脚すると毛沢東の指名で首相になった。毛の死去から1カ月後の10月,いわゆる四人組を逮捕し,文化大革命を終了させた。以後,党主席として一時権力を掌握したが,鄧小平に批判され81年に辞任した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…まもなく江青ら〈四人組〉が逮捕されて,10年にわたる文革期の幕が下りた。(4)第4期(1977年以降) 〈四人組〉逮捕後,党中央主席となったのは華国鋒(1921‐ )であったが,彼の地位は,天安門事件の処理に際して毛沢東から党規約にない党第一副主席に指名されたことに由来するもので,その合法性はきわめて疑わしいものであった。華国鋒は,〈四人組〉時代の行すぎを是正しつつ,大慶と大寨の2本の赤旗を軸に文革の基本路線を堅持しようとした。…
…国内的には,73年8月の第10回全国大会で,文革の混乱を収拾するため打倒された幹部の再起用が行われたが,同時に毛沢東夫人江青を中心に王洪文,張春橋,姚文元からなる〈四人組〉が党の中枢を握り,周恩来,鄧小平に代表される行政・経済の幹部と対立した。76年,周恩来,毛沢東が死去し,〈四人組〉は鄧小平の追い落しを強行したものの党の内外で孤立し,10月,華国鋒らのクーデタによって失脚した。77年8月の第11回全国大会は文化大革命(第1次)の成功・完了を宣言し,中国を現代化された社会主義国とする新たな建設の時期に入ったことを確認して華国鋒を党主席に選出した。…
※「華国鋒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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