葛生能久(読み)くずうよしひさ

改訂新版 世界大百科事典 「葛生能久」の意味・わかりやすい解説

葛生能久 (くずうよしひさ)
生没年:1874-1958(明治7-昭和33)

国家主義者。千葉県出身。本名修吉。1901年内田良平とともに黒竜会創立。05年《朝鮮日報》を刊行し,韓国併合の実現を目ざす。以後,普通選挙不戦条約海軍軍縮条約などの反対運動,国体明徴問題関与。31年大日本生産党結成に参加し,内田良平死後,黒竜会主幹。右翼の長老的存在として,国民精神総動員中央連盟に参加し,さらに新体制準備委員として,〈観念右翼〉の立場から,大政翼賛会の〈一国一党〉化に反対した。翼賛会総務を任じた。
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20世紀日本人名事典 「葛生能久」の解説

葛生 能久
クズウ ヨシヒサ

明治〜昭和期の国家主義者 黒竜会代表。



生年
明治7年7月25日(1874年)

没年
昭和33(1958)年2月3日

出生地
千葉県

経歴
明治34年内田良平らと政治結社「黒竜会」を組織。民間団体として対露戦に備えた。また中国辛亥革命袁世凱妥協を図った革命軍説得のため何回も中国へ渡った。昭和6年黒竜会を中心とした大日本生産党の幹部となり、大政翼賛会委員ともなった。戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され、23年釈放された。黒竜会刊「東亜先覚志士紀伝」(全3巻)の監修者でもある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「葛生能久」の解説

葛生能久 くずう-よしひさ

1874-1958 明治-昭和時代の国家主義者。
明治7年7月25日生まれ。葛生東介の弟。明治34年内田良平らと黒竜会を組織。辛亥(しんがい)革命に際し中国にわたって革命派を援助する。昭和6年大日本生産党結成に参加。12年の内田の死後黒竜会主幹。昭和33年2月3日死去。83歳。千葉県出身。編著に「東亜先覚志士記伝」。

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367日誕生日大事典 「葛生能久」の解説

葛生 能久 (くずう よしひさ)

生年月日:1874年7月25日
明治時代-昭和時代の国家主義者
1958年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の葛生能久の言及

【黒竜会】より

…日本の国家主義・アジア主義団体。玄洋社系の大陸浪人内田良平らが1901年東京で結成。1895年の三国干渉への不満が結成の遠因といわれる。会の名は露清国境を流れる黒竜江(アムール川)からとった。主幹は内田,幹事は葛生修亮(能久),玄洋社での内田の先輩格頭山満を顧問とした。綱領は日本がアジア民族興隆の指導者となるべきことを宣言し,藩閥官僚主義の弊害除去,〈天皇主義の妙諦〉の発揮,現行制度の改造による〈皇国〉の基礎の強化,国防の充実,国粋主義的国民教育の建設などを主張している。…

※「葛生能久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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