日本の国家主義・アジア主義団体。玄洋社系の大陸浪人内田良平らが1901年東京で結成。1895年の三国干渉への不満が結成の遠因といわれる。会の名は露清国境を流れる黒竜江(アムール川)からとった。主幹は内田,幹事は葛生修亮(能久),玄洋社での内田の先輩格頭山満を顧問とした。綱領は日本がアジア民族興隆の指導者となるべきことを宣言し,藩閥官僚主義の弊害除去,〈天皇主義の妙諦〉の発揮,現行制度の改造による〈皇国〉の基礎の強化,国防の充実,国粋主義的国民教育の建設などを主張している。機関誌《黒竜》(のち《亜細亜時論》)を発行,また黒竜語学校を創設して大アジア主義,日本の大陸進出を唱え,その名は〈ブラック・ドラゴン・ソサエティBlack Dragon Society〉として海外にも響いた。多くの大陸浪人を擁して対露強硬論の喚起や韓国併合の実現に裏面の画策を行い,フィリピン独立運動家アギナルド,中国の革命家孫文らの活動にも関与した。また東アジア各地の実地調査,地図の作成を精力的に行い,帝国主義確立期の日本のアジア研究に寄与し,政策への提言も行った。さらにシーメンス事件による山本権兵衛内閣の倒閣運動のほか,ベルサイユ条約,ワシントン条約,アメリカの日本人移民制限,済南事件など外交問題に対外強硬論の立場からの活動・発言を続けた。また大正デモクラシー期には自由主義・社会主義思想や社会運動に対抗し,浪人会などと並んで活発な反動工作を展開した。天皇中心の国内改造の主張は日本ファシズムの思想的源流の一つと目されるが,ファッショ的潮流の台頭でこの側面が強調され,1931年内田,葛生らの大日本生産党が結成され,黒竜会は事実上これに吸収された形となった。35年当時の会員数は400~500名とされるが,結成直後からそう増えていない。内田らの人間関係を軸に動いていたために,大衆的基盤を欠いていたことがうかがえる。46年占領軍の指令で解散させられた。
執筆者:岡部 牧夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
日本の国家主義団体。三国干渉に憤慨した内田良平(りょうへい)らが1901年(明治34)に結成。主幹に内田、顧問に頭山満(とうやまみつる)が就任、玄洋社(げんようしゃ)の系譜を引く。大アジア主義・大陸進出を唱えて『黒竜』『東亜月報』などの雑誌を発行する一方、諸方の実地調査や地図の編纂(へんさん)など、帝国主義的アジア研究にも先鞭(せんべん)をつけた。多くの大陸浪人を擁し、フィリピン独立運動や孫文(そんぶん/スンウェン)の中国革命運動にもある程度参画した。国内問題では大正デモクラシーの潮流や社会主義思想、労働運動に敵対し、日本の代表的右翼団体として世界的に有名であった。昭和のファシズム期には国家改造運動に傾斜し、1931年(昭和6)内田らが結成した大日本生産党の母胎となり、実質的にはこれに合流した。敗戦後の46年(昭和21)占領軍の指令で解散した。大著『日韓合邦秘史』『東亜先覚志士紀伝』などを刊行している。
[岡部牧夫]
『黒竜倶楽部編『国士内田良平伝』(1967・原書房)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。さらに1901年には,三国干渉後の対露強硬世論の高揚を背景に,内田良平らによって黒竜会が結成された。明治期の右翼団体は,天皇中心主義,国家主義,大アジア主義,現状打破などの主張をかかげて多くの大陸浪人を擁し,一方では大アジア主義の主張から金玉均,孫文,E.アギナルド,B.ボースらアジア各国の独立運動家を援助したが,他方では日露開戦,日韓併合の推進などを主張して軍部と結び,つねに大陸侵略の先兵の役割を果たした。…
※「黒竜会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新