大日本生産党(読み)だいにほんせいさんとう

改訂新版 世界大百科事典 「大日本生産党」の意味・わかりやすい解説

大日本生産党 (だいにほんせいさんとう)

〈大日本主義に立脚して従来分散状態にあった右翼団体の大同団結をはかり強大な勢力を結集して昭和維新の断行を期す〉ことを目的として,黒竜会関西支部を中心に1931年に結成されたファッショ的団体。黒竜会関西支部長であった吉田益三は,内田良平らの意を体し,1930年7月,大日本生産党創立準備会発起人大会を催し,翌31年6月28日結成された。内田良平によれば同党結党の理由は,〈民族固有の精神〉に基づく〈国民一致の大活動〉の必要,生産界の振興,〈政弊の刷新〉などにあった。さらに11月の第1回全国大会は〈社会制度の根本的改革〉〈金権回収〉などを強調。32年には党員1万6000余名を擁し,争議にも介入し,栃木県阿久津村小作争議では,労農大衆党員と流血の衝突事件をも起こし,3名の死亡者を出した。しかし,党内での黒竜会系・旧急進愛国党系・旧日本国民党系といった内部対立に加えて,33年,青年部長鈴木善一らが神兵隊事件関係し検挙され,同党の沈滞を招くにいたる。その後37年愛国労働農民同志会と密接な関係となり,勢力伸張を図ったが,政治的進出の是非をめぐる内部の対立などあり,活動は不振のまま党の中心は青年隊とその基礎となる大東塾などに移った。42年言論出版集会結社等臨時取締法により,思想結社大日本一新会に改組。第2次大戦後解散団体に指定されたが,54年6月河上利治を総裁として再建された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大日本生産党」の意味・わかりやすい解説

大日本生産党
だいにほんせいさんとう

1931年(昭和6)6月に結成された全国的な国家主義政党。黒竜会の内田良平(りょうへい)(総裁に就任)と吉田益三(ますぞう)が中心となり、同年11月開かれた第1回大会には黒竜会、日本国民党など19団体が参加。最初「大日本主義」を掲げていたが、32年1月急進愛国党(津久井竜雄(つくいたつお))や一部労働組合が加盟後、「金融寡頭政治の打破」など国家社会主義政策を採用。労働組合に働きかけて大日本生産党職業組合連合会などの下部組織をつくり、中小企業、借地借家人の組織化や農民運動にも力を入れるなど、当時の右翼運動のなかでは異彩を放っていた。31年12月、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)から提携の申入れがあり、内田総裁が訪日した代表ドン・ガドと会見したことなども注目すべきであろう。しかし33年の神兵(しんぺい)隊事件で党幹部多数が逮捕されたことなどから運動は沈滞した。42年解党して思想団体大日本一新会となり、46年(昭和21)1月GHQ(連合国最高司令部)の覚書で解散。性格は変わったが、同党の流れをくむ戦後右翼に、54年結成された大日本生産党(現総裁鴨田徳一)と、吉田益三が56年に組織した国民同志会(現会長吉田尚正)がある。

[大野達三]

『木下半治著『日本のファシズム』(1977・国書刊行会)』『大日本生産党編『生産党の記録』(1952・民族公論社)』

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百科事典マイペディア 「大日本生産党」の意味・わかりやすい解説

大日本生産党【だいにほんせいさんとう】

右翼団体。1931年大阪の黒竜会支部を中心に設立。総裁は内田良平,会長は吉田益三(ますぞう)。〈君民一致〉〈自給自足経済の確立〉などを唱えた。争議にも介入し,栃木県阿久津(あくつ)村小作争議では全国労農大衆党員と流血の衝突事件を引きおこした。敗戦後解散。1954年河上利治を総裁として再興。
→関連項目神兵隊事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大日本生産党」の意味・わかりやすい解説

大日本生産党
だいにほんせいさんとう

1931年6月 28日結成の右翼団体。黒龍会など 18団体を統合したもの。総裁内田良平。繊維,金属,海運などの右翼労働運動を推進して,勢力を伸ばした。 33年の神兵隊事件に党の首脳部が連座し,急速に勢力が衰えた。 46年連合軍総司令部から解散を命じられたが,54年6月再建されている。

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