蒲原村(読み)かんばらむら

日本歴史地名大系 「蒲原村」の解説

蒲原村
かんばらむら

[現在地名]新潟市長嶺ながみね町・蒲原町明石あかし二丁目・沼垂西ぬつたりにし一丁目・沼垂東ぬつたりひがし三―六丁目・竜が島りゆうがしま一―二丁目・天神てんじん二丁目

村域は沼垂町長嶺新田と飛地を交え、錯綜するが、これは信濃川・阿賀野川の流域変遷に左右されたことによる。古代・中世の蒲原津と当村との関係は不詳だが、「延喜式」主税上に「海路、自蒲原津湊敦賀津船賃、石別二束六把」とある。建武三年(一三三六)一二月三日付の色部高長軍忠状案(色部氏文書)に蒲原津城とみえ、南朝方の拠点の一つとされる。永享一一年(一四三九)一〇月一〇日付の室町将軍家(足利義教)御教書(白川文書)によれば、上杉氏に命じて蒲原津を白河氏朝の代官に渡すよう指令している。

蒲原村
かまはらむら

[現在地名]八女市蒲原・たつはら

鵜池うのいけ村の北東、八女丘陵の台地縁辺に立地する。やま川が流れる。中世より開かれた地で、氏神坂本さかもと山王宮の氏子圏やその分霊の勧請などから付近一帯の中心的村落であった。久留米城下福島ふくしま町を結ぶ道(豊後別路)が通る。中世は上妻こうづま庄のうち。宝治二年(一二四八)九月一三日の関東下知状案(室園文書/鎌倉遺文一〇)に「蒲原・次郎丸名主職」とみえ、地頭泰房は名主吉田能茂が所務を押領したと訴えた。能茂は両所の地頭職は文治二年(一一八六)に祖父家秀・父家職が与えられたもので、その後天野遠景・中原親能が惣地頭となったが、父らの地頭職は小地頭職として認められ、建久八年(一一九七)幕府から安堵されたと主張した。

蒲原村
かばらむら

[現在地名]足立区東和とうわ一―四丁目など

北三谷きたさんや村の北に位置し、北は大谷田おおやた村と久左衛門きゆうざえもん新田、東は長左衛門ちようざえもん新田。村越和泉が開発したと伝える(「東京府村誌」東京都公文書館蔵)淵江ふちえ新川東しんかわひがし(綾瀬川以東)の新田地帯に属し、田園簿に蒲原新田とみえる。田一六九石余・畑一七石余。元禄郷帳でも蒲原新田で高二〇二石余。「風土記稿」、天保郷帳には蒲原村とある。助郷は日光道中千住宿へ出役。

蒲原村
かもはらむら

[現在地名]南国市岡豊おこう町蒲原

香長かちよう平野の北部にあり、蒲原山の丘陵が東西に連なり、南部を国分こくぶ川が西流、支流の山崎やまさき川が南流して注ぐ。「土佐州郡志」は「東限小野及中島、西限瀑本村定林寺、南限土佐郡之布師田村、北限瀑本、東西十町余南北二町」「伝云此旧大沢蒲多生、故名村、周廻堤防三百間許」と記す。

天正一六年(一五八八)の江村郷地検帳に蒲原村がみえ、当地の土豪蒲原又四郎の給地を中心とし、多くの長宗我部氏家臣に分与されている。又四郎は三六代五歩の「土居ヤシキ」に居住し、一一町一代の給地と一町三反四九代の手作地をもつ。元禄地払帳によれば総地高二三四石余、うち本田高二二一石余・新田高一二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報