蒲田村(読み)かまたむら

日本歴史地名大系 「蒲田村」の解説

蒲田村
かまたむら

[現在地名]淀川区西三国にしみくに一―四丁目・東三国ひがしみくに一―六丁目

南流する神崎川の左岸にあり、南は北宮原きたみやはら村・宮原新家みやはらしんけ村。村の西端新在家しんざいけ村との境に能勢のせ街道三国渡がある。古くは仏生院ぶつしよういん村と称したが、宝永六年(一七〇九)蒲田村と改称(西成郡史)高須たかす油井ゆい(のち井有)・砂村の小村があった(摂陽群談)。仏生院の名は、嘉吉二年(一四四二)四月二九日の民部丞景安敷地渡進状案(藻井家文書)に「仏性院又三郎名」とみえ、中島なかじま惣社(現東淀川区)崇禅そうぜん(現同上)敷地として進上した「松原内壱町四方」の替地として同地が惣社に下賜されている。


蒲田村
かまたむら

[現在地名]尾上町蒲田がまた

田圃を隔てて北に新山にやま村、東南に八幡崎やはたさき村、南に野添のそえ村、南西日沼ひぬま村がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に高三六四・一九石、うち田方三三五・〇七石とある。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田畑屋敷合わせて四五町二反九畝二五歩、村高五〇三・〇五石とある。うち田方は四二町八反九畝四歩、四八八・八五二石、上々田から下々田まで設定され、上田が一五町五反八畝歩、二〇二・五四石、中田一七町五反九畝六歩、一九三・五一二石であり、畑方は二町四反二一歩、一四・一九八石、上畑から下々畑までで、上畑が一町一反八歩、六・六一六石、二四歩の郷蔵屋敷がある。


蒲田村
かわたむら

[現在地名]氷見市蒲田

氷見庄の南部、二上ふたがみ山系の丘陵の深い谷間に位置し、西は神代こうじろ村、東は堀田ほりた村。集落は丘陵東側の谷間にあり、西側の高地に垣内の神代蒲田がある。耳浦みみうら川の水源があり、谷間を縫って神代村方面へ流れる。慶長一五年(一六一〇)の遷宮祭礼勤仕神主連判状(越中古文書)に村名がみえ、正保郷帳の高一九一石余、田方八町七反余・畑方四町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二一三石・免六ツ七歩、小物成は山役三四匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)百姓一八・頭振一・社人一(「高免等書上帳」折橋家文書)。天保四年(一八三三)の家数二三(「家数調理帳」同文書)。文政八年(一八二五)南条組、天保一〇年以降も南条組に属した。


蒲田村
かまたむら

[現在地名]東区蒲田一―五丁目など

表粕屋おもてかすや郡に所属。久原くばら川の下流域、名子なご村の南東に位置し、東は久原村(現久山町)、南は江辻えつじ(現粕屋町)。小早川時代の指出前之帳では蒲田村の田一〇三町一反余(分米九五七石余)・畠二三町八反余(分大豆九七石余)。慶長七年(一六〇二)検地高一千一五四石余、うち大豆一三二石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千一八五石余・反別九四町九反余、家数七五・寺二・社一、人数五六二(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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