久原村(読み)くばらむら

日本歴史地名大系 「久原村」の解説

久原村
くばらむら

[現在地名]三朝町久原

助谷すけだに村の南、竹田たけだ川左岸に集落が位置する。津山往来が集落内をほぼ南北に通り、村南端に久原番所がある。拝領高一八七石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高二四〇石、竈数二〇余で、穴鴨あながも村・四十曲しじゆうまがり村より美作国に越すため、当村に番所があるとする。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高二〇四石余、高二六七石余、うち畑高一六石余。免六ツ、倉吉御蔵納。悪田加損米一石五斗。炭役米三斗五升・藪役銀四匁が課され、棟数七軒・役高一四〇人。男六七・女六〇。御国札七番の観音堂、久米くめ菅原すがわら(現倉吉市)への山道がある。


久原村
くばらむら

[現在地名]上県町久原

鹿見ししみ村の西に位置する。から崎の根元の浦。南部の向木庭むこうこばという畑地で縄文時代早期の土器片が発見されている。北西の唐神からかみという山は「津島紀事」に韓神とあり、また飛瀬とぶせ崎は登布乃崎とも称し、上代に船の発着があったと記され、現みね木坂の飛きさかのとぶ崎とともに古代の烽であったとも考えられる(未調査)。村の南の三根みね方面に越える黒蝶くろちよう山に火立隈ほたてぐまとよばれる峰があり、朝鮮通信使の来聘を報ずる狼煙を置いた地という(津島紀事)。「海東諸国紀」に「仇婆老浦二十余戸」とあるのが当地とされる。


久原村
くばらむら

[現在地名]伊万里市山代町やましろちよう久原

西にし岳山地の標高五〇〇メートル台の高原から伊万里湾への東斜面にある。平坦地が狭小で灌漑用水に供される河川も欠き、海岸線は波瀬はぜの入江が干拓されたので単調。平戸道に沿う街村。慶長絵図に「楠久くすくノ内 久原村」とある。

干拓地である大波瀬搦おおはぜがらみは宝暦七年(一七五七)に「山代郷大波瀬・小波瀬・天神右三ケ所搦地ニ相願候様御山方より被仰達候ニ付而相願候処、御拝借銀等扨又くひ木迄被下、搦築立候事」(永尾家史料)とあるので、宝暦―明和(一七五一―七二)の造成とみられ、文政三年(一八二〇)のその規模は田畑合わせて二町六段である。小波瀬搦もほぼ同時で、宝暦末に着工、明和元年九月には田畑合計約二町五段を「段入」し、文政三年には田方だけでも三町五段余に拡大している。


久原村
くばらむら

[現在地名]宗像市久原・さと四―六丁目

つり川支流高瀬たかせ川中流域、王丸おうまる村の北に位置する。文和元年(一三五二)一一月二二日、室町幕府は久原五郎跡の久原村地頭職などを宗像氏俊に渡すよう九州探題一色直氏に命じている(「室町幕府引付頭人大高重成奉書」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)三)。久原氏は当地を名字の地にする小領主で少弐頼尚に従い地頭職を没収された。応安四年(一三七一)七月二六日には宗像氏俊が弥松丸(氏頼)に久原村地頭職を譲っている(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)


久原村
くばらむら

[現在地名]久山町久原

犬鳴いぬなき山の南西に位置し、北は猪野いの村、南は津波黒つばくろ(現篠栗町)。久原川の上流・中流域を占める。古代糟屋郡柞原くはら(和名抄)の遺称地。寛元五年(一二四七)二月二〇日に法橋栄舜は相伝の私領である筥崎宮講経免田を安楽房栄重に譲与している。その一つに「牟多田壱町」があり、同所は「久原内」であった(「法橋栄舜譲状案」石清水文書/鎌倉遺文九)。年月日未詳官中便補地由緒注文案(壬生家文書/鎌倉遺文五)によると「久原益永名」は壬生家相伝の所領であったが、国宗宿禰のとき京都建仁けんにん寺に寄進されている。しかし正平二一年(一三六六)四月日付執行成貞注文(石清水文書/南北朝遺文(九州編)四)によれば当時益永名は筥崎宮領であり、「若宮仮殿御遷宮饗膳米」を負担している。


久原村
くばるむら

[現在地名]山鹿市久原

不動ふどう岩の西に位置し、南部を吉田よしだ川が西流、東は霊仙りようぜ村、西は今田いまだ村・名塚なづか村・下吉田村、北は上吉田村と接するが、霊仙・今田の両村とは耕地が入り交じる。「国誌」によると文禄(一五九二―九六)頃まで霊仙・今田と当村は一村で薄尾すすきお村と称していたが、のち三ヵ村に分れ、そのために田畠も入り交じるという。近世は中村手永に属する。寛永一五年(一六三八)の地撫帳によると田三六町一反九畝余・畠八町五畝余、高五六七石九斗余、下ケ名に八反田・六反田・まつりでん・道免などがある。


久原村
くばるむら

[現在地名]三重町久田ひさだ 久原

中尾なかお村の南西、本城ほんじよう(四四〇・一メートル)の西麓から奥岳おくだけ川東岸にかけて広がる。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳(渡辺家文書)には久原村の一冊も含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では高一六八石余、上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一一二石余・出来高五六石余、田方八六石余・畑方八一石余、雑木・小松山ありと注記される。正保郷帳では三重之庄に属した。江戸時代後期の免は三ツ七分(「雑録」臼杵藩政史料)。文政六年(一八二三)には下玉田組に属した(万用集)。天保元年(一八三〇)なべくら溜池が築造された(「留書」多田家文書)


久原村
くばらむら

[現在地名]美都町久原

益田川支流の三谷みたに川最上流部に位置し、南流する久原中郷くばらなかごう川が西側の三谷村境で合流する。北は矢原やばら(現三隅町)。神護景雲二年(七六八)朝廷より節婦と称揚された木部きべ(現益田市)の寡婦蘇提売の所有地で、当地の租をもって薬に換え窮民に与えたことからくすり村ともいったという伝承がある(石見八重葎)。領主の変遷は都茂つも村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高二五八石余、年貢高は田方一三七石余・畑方四九石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高二二七石余、免七ツ六分余。耕地は狭く三谷川の両岸に細長く東西に続き、周囲は山林に囲まれ紙漉が盛んであった。


久原村
くばらむら

[現在地名]長南町豊原とよはら 久原

長井ながい村の西に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五八石で、幕末までほぼ同様。寛永一〇年(一六三三)の久遠寺法花宗諸寺目録に久原妙善みようぜん寺とあり、寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二八で、幕府領と旗本酒井領。幕末も同様。弘化二年(一八四五)から嘉永六年(一八五三)までの年貢皆済目録(墨田家文書)では本途米七二石余・永九貫八一九文などとあるが、嘉永期には連年用捨または延納が認められている。


久原村
くばらむら

[現在地名]岩瀬町久原

岩瀬盆地北西部、いずみ川左岸にあり、東は富谷とみや村、西は飯岡いいおか村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。久原村差出帳(安達家文書)によれば、慶安三年(一六五〇)に検地を実施し、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)に新開検地を行う。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には堰七、飯岡村から分水の溜池三、四壁山八、野山秣場一があり、薪と秣場は大岡おおおか村へ入会になっている。


久原村
くばるむら

[現在地名]犬飼町久原

犬飼町の東、大野川東岸にある。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には久原村が細口ほそぐち村など九ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、鍋田村組に属し、高一五一石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方五一石余・畑方一〇〇石余、日損所・柴山外有と注記される。


久原村
くばるむら

[現在地名]竹田市飛田川ひだがわ

稲葉いなば川中流南岸にあり、南は小丘を挟んで拝田原はいたばる村。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。幕末に山手やまて村より分村した。弘化物成帳では君ヶ園組のうち、村位は下、免一〇成、田二六石余(二町七反余)・畑三石余(八反余)・屋敷七斗余(七畝余)で、開田はほとんどなく、開畑七斗余(一反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android