藤原惟憲(読み)ふじわらのこれのり

改訂新版 世界大百科事典 「藤原惟憲」の意味・わかりやすい解説

藤原惟憲 (ふじわらのこれのり)
生没年:963-1033(応和3-長元6)

平安中期の廷臣家系は高藤流,祖父は中納言為輔,父は駿河守惟孝。藤原道長家司けいし)として信任され,因幡,甲斐,近江の守,右馬頭等を歴任,また1017年(寛仁1)敦明親王が東宮を辞退し,道長の外孫敦良親王が東宮に立つと,その春宮亮に任ぜられた。1016年(長和5)道長の土御門第の西隣の惟憲宅から出火,道長邸や法興院など多くの家が焼失した。土御門第は18年再建移徙(いし)が行われたが,彼の家の移徙も同日行われ世人の不審を買った。20年播磨守。23年(治安3)大宰大弐となり従三位に叙せられたが,このとき道長・頼通ほか一門に莫大な献納を申し出たという。翌年赴任に際し正三位。29年(長元2)任終わり帰京の際には多くの財宝を持ち帰り,九国二島の物を奪い尽くしたと評された。彼の妻の典侍藤原美子(《尊卑分脈》には惟憲女とある)は後一条天皇の乳母。摂関家に密着し巨利を得た典型的受領である。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原惟憲」の解説

藤原惟憲

没年:長元6.3.26(1033.4.27)
生年:応和3(963)
平安中期の官人。駿河守惟孝と伴清廉の娘の子。因幡,甲斐などで地方官を勤めたのち,九州一円を支配する大宰府(太宰府市)の長官を終え9国2島の財宝を携えて帰京,「貪欲のうえ首尾をわきまえない」人物と評された(『小右記』)。この財力をもって藤原道長の家司として活躍し,京内の一等地で道長の土御門第の西隣に邸を構えた。長和5(1016)年,自邸から出火,道長邸などを消失したが,その再建の造営責任者となり2年後に完成させた。自邸も新造。万寿1(1024)年正三位。娘のひとりが後一条天皇(道長の外孫)の乳母になった。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原惟憲」の解説

藤原惟憲 ふじわらの-これのり

963-1033 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
応和3年生まれ。駿河守(するがのかみ)藤原惟孝の子。近江守(おうみのかみ),播磨(はりまの)守,大宰大弐(だざいのだいに)などを歴任,正三位にいたる。この間たくわえた財力で,藤原道長に家司(けいし)として奉仕。大宰府での任をおえたときは,九州9国2島の財物をうばいつくしたと評された(「小右(しょうゆう)記」)。長元6年3月26日死去。71歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の藤原惟憲の言及

【受領】より

…彼らは,その強大な力にものを言わせて正規の徴収物のほかに多くの加徴を行い,莫大な富を築いた。農民からその非法を訴えられた藤原元命(もとなが)の例(《尾張国郡司百姓等解文》)や,莫大な財宝をたずさえて帰京し,《小右記》の筆者藤原実資に〈貪欲なり〉と評された藤原惟憲の例など,その収奪の過酷さと貪欲さを伝える史料は多い。ただ彼らとても,まったく無制限な収奪が可能だったわけではなく,一応のルールに従ったうえで可能なかぎりの増徴を行ったものと思われる。…

※「藤原惟憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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