藤原秀能(読み)ふじわらのひでとう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原秀能」の意味・わかりやすい解説

藤原秀能
ふじわらのひでとう
(1184―1240)

鎌倉時代の歌人。「ひでよし」とも読む。父は河内守(かわちのかみ)秀宗(ひでむね)、母は伊賀守源光基(みつもと)の女(むすめ)。土御門通親(つちみかどみちちか)家に仕え、後鳥羽院(ごとばいん)の北面の武士から検非違使(けびいし)兼出羽守(でわのかみ)従(じゅ)五位上になる。承久(じょうきゅう)の乱に敗れ熊野(くまの)で出家如願(にょがん)法師という。歌人としては、1201年(建仁1)18歳ごろから後鳥羽院の近従として歌壇に参加し、『新古今集』撰進(せんしん)の和歌所(どころ)寄人(よりゅうど)に追加され、「建仁(けんにん)元年八月三日和歌所影供歌合(えいくうたあわせ)」「同十二月二十八日石清水社(いわしみずしゃ)歌合」「元久(げんきゅう)元年(1204)春日社(かすがしゃ)歌合」に出席し、『新古今』の最新鋭的存在。後の「道助法親王(どうじょほっしんのう)家五十首」や「遠島(えんとう)歌合」に出詠。家集は『如願法師集』。

[有吉 保]

『藤平泉「承久乱前後の藤原秀能の和歌活動」(『日本大学語文』所収・1985.6・日本大学国文学会)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原秀能」の解説

藤原秀能 ふじわらの-ひでよし

1184-1240 鎌倉時代の武士,歌人。
元暦(げんりゃく)元年生まれ。藤原秀康の弟。後鳥羽(ごとば)院の北面の武士。元久2年(1205)「新古今和歌集」撰進の和歌所寄人(よりゅうど)にくわえられる。承久(じょうきゅう)の乱後は出家,如願(にょがん)と称した。勅撰集には「新古今」以下に80首がはいり,「遠島御歌合」にも出詠。延応2年5月21日死去。57歳。名は「ひでとう」ともよむ。家集に「如願法師集」。
格言など】夕月夜(ゆふづくよ)しほ満ちくらし難波江(なにはえ)の芦の若葉を越ゆるしら波(「新古今和歌集」)

藤原秀能 ふじわらの-ひでとう

ふじわらの-ひでよし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原秀能」の意味・わかりやすい解説

藤原秀能
ふじわらのひでよし

[生]寿永3(1184)
[没]延応2(1240).5.21.
鎌倉時代前期の歌人。「ひでとう」とも読む。河内守秀宗の子。後鳥羽上皇の北面の武士。出羽守従五位上。早くから歌才を認められ,歌合,歌会の類に参加,和歌所寄人に加えられた。承久の乱の際,追手の大将とされたが敗れ,熊野に入って出家。法名,如願。家集『如願法師集』 (3巻,1240) は 900首余を収める。『正治二年第二度百首』 (1200) ,『最勝四天王院障子和歌』 (07) ,『道助法親王家五十首和歌』 (18) の作者の一人。

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