藤縄村(読み)ふじなわむら

日本歴史地名大系 「藤縄村」の解説

藤縄村
ふじなわむら

[現在地名]茂木町茂木

さか川の左岸に位置し、東は槻木つきのき村、北は小井戸こいど村。北部を坂井さかのい川が東流し、逆川に合流。逆川を隔てた北に標高一六五メートルのしろ山がそびえる。槻木村とともに常陸谷田部藩茂木領の陣屋町を形成し、茂木町と称した。郭内と称する侍屋敷の一部が東部の逆川端にあり、郭内の西端に大手門がある。中世には茂木保を構成する郷村で、承久四年(一二二二)二月二一日の茂木知基譲状写(茂木文書)に「藤和」とみえ、以後建武四年(一三三七)七月三日の足利直義下文(同文書)まで同表記で現れる。文和二年(一三五三)六月一〇日の明阿茂木知貞譲状写(同文書)から「藤輪」と表記されるようになった。文明一四年(一四八二)一一月日の茂木家臣給分注文(同文書)には藤縄郷と記される。同注文から「スナ(砂)田」が藤縄郷に含まれていたこと、「上地蔵堂」が藤縄郷内にあったこともわかる。

近世を通じほぼ谷田部藩領。


藤縄村
ふじなわむら

[現在地名]大洲市藤縄

大洲盆地北部の感応寺かんのうじ(六八九メートル)妙見みようけん(五三五メートル)とを結ぶ山系の北斜面、矢落やおち川支流柳沢やなぎさわ川流域を占める標高二五〇―四五〇メートルの山村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「藤縄村 日損所、茅山有」とある。元和九年(一六二三)以降、新谷藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「新谷御分」として土産に「米・大豆」と記す。


藤縄村
ふじなわむら

[現在地名]佐賀町藤縄

熊井くまい村の南西に伊与喜いよき川を隔てて位置し、南は佐賀村に接する。伊与木いよき郷の一村。慶長二年(一五九七)の伊与木村地検帳に伊与木村を構成する一村として名がみえる。検地面積は八町余、屋敷数一一、居屋敷は七。江戸時代の当村は元禄郷帳によると本田高八一石余。寛保郷帳では家数一六、人数六一、馬一六、猟銃二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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